सूर्य की त्रिज्या लगभग 700,000 किमी और व्यास लगभग 1,400,000 किमी है, जो पृथ्वी के व्यास का लगभग 109 गुना है।

 1943(昭和18)年2月に日本軍がガダルカナル島を放棄して以降、太平洋に散らばった日本が占領する島々では、圧倒的な攻撃力を誇る連合軍の前に、守備隊が死を覚悟した絶望的な突撃をし、ほぼ全滅する「玉砕」(ぎょくさい)が繰り返されました。

 

本項では、太平洋の島々の代表的な戦いを概観し、日本軍が追い詰められていく状況を追います。

 

玉砕

玉砕(ぎょくさい)とは、辞書によれば「玉のように美しくくだけ散ること。全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬこととあります。アリューシャン列島・アッツ島の日本軍守備隊が敵に突撃してほぼ全滅した時、大本営が発表の中で用いられたのが最初とされます。

玉砕は「北斉書」という、636年に書かれた中国の書物から取られた言葉で、「全滅」を美化して呼ぶために用いられました。

日本軍は軍人の心構えを述べたとされる「戦陣訓」にあるように、捕虜(俘虜)となることは最大の恥辱(ちじょく)とされ、捕虜になるくらいならば死ぬべき、と教育されていました。

そのため、戦局が絶望的になると、降伏するのではなく全滅を覚悟で突撃する玉砕が繰り返されるようになりました。「天皇陛下万歳」を叫びながら最後の突撃をする場合が多く、連合軍からは "banzai attack" と呼ばれました。

生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ
「戦陣訓」より

※出典…デジタル大辞泉

本項では、太平洋の島々の玉砕や脱出の様子を概観します。以下の地図にあるように、太平洋上に散らばる大変広い範囲で日本とアメリカ軍を中心とする連合軍の間で死闘が繰り広げられました。

 

玉砕のあった太平洋の島々(一部)[parts:eNozsjJkhAMTs6Q0M1MzY/0U/dTcpNQU+9zMFFtDA9PwsAiTiuLyzFI/18SSyEyLopJg/xwzFwtXJjMTAyYTCwMALwkRuQ==]青=アッツ島(アリューシャン列島)
紫=ギルバート諸島
ピンク=マーシャル諸島
緑=サイパン島

 

アリューシャン列島(アッツ島・キスカ島)

1942(昭和17)年6月、ミッドウェー作戦とほぼ同じタイミングで、連合艦隊は北方の「アリューシャン列島」に対する攻撃を行い、アメリカ領であったアッツ島、キスカ島を制圧。ここに守備兵を置いていました。これは北方の守りを固めると同時に、アメリカ本土を占領したという宣伝のためでもありました。

 

アリューシャン作戦 要所図[parts:eNozsjJkhAMTs6Q0M1MzY/0U/dTcpNQU+9zMFFvDdEtjQ8MKT1Nz06QI8/JCs/Ds+MrQsCLfSktXJjMTAyYTCwMAGyoRLw==]青=アッツ島
紫=キスカ島
緑=アダック島
オレンジ=ダッチハーバー

初の「玉砕」となったアッツ島

アッツ島における日本軍守備隊は約2500名でした。それに対し、1943年5月12日、アメリカ軍は1万1000人の部隊で上陸。空母1隻、戦艦3隻、巡洋艦3隻、駆逐艦19隻を援護に伴っていました。

大本営はアメリカ軍上陸後、増援部隊を送ると守備隊に連絡をしたものの、船を動かす燃料が不足していたことから部隊を送るのは不可能と判断し、5月23日玉砕を命令しました。

5月29日、わずか300名まで減った日本軍守備隊は、最後の突撃を行い、意識を失い捕虜となった29人(27人との説も)以外全員戦死しました。

 

アッツ島に上陸したアメリカ軍
アッツ島に上陸したアメリカ軍
アッツ島玉砕
全滅した日本兵の遺体

 

 

奇跡的な救出作戦が展開されたキスカ島

一方でキスカ島には、日本陸海軍合わせて5000人以上が守備に当たっていました。

アッツ島へアメリカ軍が上陸したことを受け、キスカ島にも押し寄せてくるのは時間の問題となりました。

玉砕したアッツ島の二の舞となるのを避けるため、兵員を撤収させることとなりました。

当初潜水艦で救出を試みようとしたものの、アメリカ軍の警戒が厳重になり、潜水艦2隻が行方不明、1隻が座礁するなどしたため、速度の速い駆逐艦を中心とした艦隊で救出をすることになりました。

1回目は天候が思わしくなく中止に、続く2回目はアメリカ軍の哨戒機を発見したことで中止。

7月29日、3回目の救出によりついにキスカ島守備隊全員を撤収することができました。

アメリカ軍はついにこの撤収作戦に気付かず、8月14日に激しい艦砲射撃の後上陸し、濃霧の中日本軍がいるという思い込みの下、同士討ちが多発し、死者95人、負傷者78人が出たと言われています。

 

「絶対国防圏」の設定

日本軍が各地で連合軍に撃破されている状況に対し、日本軍の作戦の中枢である「大本営」は、1943年9月、「絶対確保すべき要域」(通称「絶対国防圏」)を設定しました。

それは、千島、小笠原、内南洋(中西部)及び西部ニューギニア、スンダ、ビルマ(現ミャンマー)を結ぶラインで、日本が必要な資源を確保し、かつ敵から本土を防衛するのに最小限必要な地域を示したものでした。

日本の「絶対国防圏」[parts:eNozsjJkhAMTs6Q0M1MzY/0U/dTcpNQU+9zMFFvDbC8Lx9R4w5yisvA8o3L/kpzw0PTMyJD8sFwLJjMTAyYTCwMANokSNQ==]緑=千島
ピンク=小笠原
紫=サイパン
青=スンダ海峡
茶=ビルマ
※この地図は参考とするために作成したものであり、正確さを保証するものではありません。

 

ギルバート諸島(タラワ・マキン)

アメリカ軍はサイパンを中心とする「マリアナ諸島」を制圧し、日本本土を爆撃する計画を考えていました。マリアナ諸島攻略をするにあたり、背後から攻撃を受けないようにギルバート諸島の日本部隊を駆逐する必要がありました。

ギルバート諸島[parts:eNozsjJkhAMTs6Q0M1MzY/0U/dTcpNQU+9zMFFtD3wjnAP+kojQviyQfwwyPyPjwrPjI8oj4gpRIJjMTAyYTCwMALU0R7A==]青=タラワ環礁
オレンジ=マキン環礁(ブタリタリ島)

そこで、1943(昭和18)年9月下旬より、ギルバート諸島のタラワ環礁(かんしょう=円形に形成されるサンゴ礁の島)、マキン環礁の日本軍を攻撃するべく、機動部隊による空襲をしつつ、島の偵察を行いました。

そして11月21日、数日前からの激しい艦砲射撃に引き続いて1万8000人もの兵力で上陸作戦を開始。

約4500人の守備隊は、以前から島に堅固な陣地を築いており、上陸してくるアメリカ軍に対し猛烈な攻撃を浴びせました。アメリカ側にも多大な犠牲が出たものの、約150名の捕虜を残し、ほぼ全員が玉砕しました。

 

タラワ・ベティオ島に配備された日本軍高射砲(九九式八糎高射砲)
タラワ・ベティオ島に配備され破壊された日本軍高射砲(九九式八糎高射砲)
タラワ
タラワ戦闘終結後の海岸。遺体の多くは海兵隊員のもの。破壊されたアメリカ軍M3戦車に腰をかけている兵隊が見える。 Sprawled bodies on beach of Tarawa, testifying to ferocity of the struggle for this stretch of sand. November 1943. (Navy)
Exact Date Shot Unknown
NARA FILE #: 080-G-57405
WAR & CONFLICT BOOK #: 1342

 

 

続いてマキンにもアメリカ軍が上陸。約700人の守備隊に対し、アメリカ軍は約6500人の規模で上陸を試み、4日間の激戦の末、日本軍は捕虜105名(そのうちのほとんどが戦闘に参加しない「軍属」)を残し、全滅しました。

サンゴ礁の浅い海を歩いてマキンに上陸するアメリカ兵
サンゴ礁の浅い海を歩いてマキンに上陸するアメリカ兵

 

マーシャル諸島

ギルバート諸島占領後、アメリカ軍はマーシャル諸島へと向かいました。マーシャル諸島の「クェゼリン環礁」は世界最大規模で、最適な艦隊停泊地であると同時に、マリアナ諸島への中継点としても好都合であることから、アメリカ軍としてはぜひとも確保したい場所でした。

日本軍はクェゼリン島に約5100人、環礁北方のルオット、ナムル両島に約3000人を駐屯させていました。

クェゼリン環礁
クェゼリン環礁。南端がクェゼリン島。北端 東側がナムル島、西側がルオット島(ロイ)

 

1944(昭和19)年1月30日よりアメリカ軍は空爆と艦砲射撃を徹底して行い、日本軍の航空機、飛行機、防御陣地、通信施設などが破壊されました。爆薬、食糧も大部分が失われました。

そして2月1日クェゼリン島に、2日ルオット、ナムル島に上陸を行い、日本軍は激しく抵抗したものの、2月4日までに玉砕・全滅しました。

 

アメリカ軍上陸前の徹底的な空爆・艦砲射撃で破壊されたクェゼリン島
アメリカ軍上陸前の徹底的な空爆・艦砲射撃で破壊されたクェゼリン島
クェゼリン島
クェゼリン島でアメリカ軍兵士が火炎放射器を使い日本兵を陣地からいぶり出そうとしている。ほかの兵士は小銃を構え日本兵が出てくる場合に備えている

 

それ以外にもマーシャル諸島の多くの島々で日本・アメリカの間で熾烈な戦闘が行われ、いずれの島でも日本軍はほぼ全滅。主要な島における戦いでの戦死率は9割以上となりました。

 

マーシャル諸島の主な島における戦闘の日本軍被害

島名

兵力

損害

戦死率

クェゼリン 約5100人 戦死約4800人
捕虜300人
94%
ルオット・ナムル 約3000人

戦死約2540人
捕虜380人

85%
エンチャビ 1276人 戦死1260人
捕虜16人
99%
エニウェトク 808人 戦死785人
捕虜23人
97%
メリレン 1476人 戦死1451人
捕虜25人
98%
合計 約11,660人 戦死約10,840人
捕虜744人
93%

表出典:「オールカラーでわかりやすい!太平洋戦争

連合艦隊司令部の崩壊

連合艦隊司令部の移動

ソロモン諸島の攻略にあたり、アメリカ軍は日本軍の最大の拠点であり、9万人の兵力を擁するラバウルを上陸・制圧せず、空爆および周囲の島を制圧することでラバウルを無力化する方針を決めました。

山本五十六長官が撃墜され、古賀峯一長官へと交代した後、海軍航空隊の拠点は、爆撃にさらされ制海権も脅かされるようになったラバウルから、北に位置する日本海軍の一大拠点であるトラック諸島へと移動しました。

そしてトラック諸島へもアメリカ軍機動部隊の空襲が迫り、連合艦隊司令部はパラオ諸島へと移動をします。

 

連合艦隊司令部の移動と遭難地点[parts:eNozsjJkhAMTs6Q0M1MzY/0U/dTcpNQU+9zMFFtDM5fKqnyDogITs8Qks8TIZC+/Is+cktTcCu9yJjMTAyYTCwMAM/ASOw==]青=ラバウル
ピンク=トラック
紫=パラオ
緑=フィリピン・ダバオ(司令部移動目標地点)
オレンジ=セブ島沖(参謀長機不時着地点)

 

古賀峯一司令長官の遭難と機密漏洩事件(海軍乙事件)

パラオへと移った連合艦隊司令部ですが、パラオにもアメリカ軍の空襲があるという情報が入り、1944(昭和19)年3月31日、水上機二機に分乗し、急遽フィリピンの「ダバオ」を目指して移動を行いました。

しかし、悪天候に阻まれ、古賀長官の乗った機は行方不明になり、長官機の搭乗者は誰も生存者はありませんでした

もう一機には福留参謀長らが乗っていましたが、こちらはフィリピンのセブ島沖に不時着しました。

フィリピンは日本軍の勢力下ではありましたが、いたるところにアメリカ軍の指示を受けて動くゲリラがおり、福留参謀長らはゲリラに捕まってしまいました。

フィリピンの日本陸軍までが部隊を出し、武力を背景に交渉したところ、参謀長らはゲリラから解放されました。

しかし、参謀長らは連合艦隊の作戦内容や兵力等が記された機密文書を所持しており、逃亡の際に投棄したものの、ゲリラに回収され、連合軍の手にわたってしまいました。

これによって連合艦隊の作戦と戦力の全貌が敵に筒抜けとなってしまいました。この一連の事件は「海軍乙事件」と呼ばれました(山本長官機撃墜事件は「海軍甲事件」)。

古賀峯一海軍大将
殉職した連合艦隊司令長官 古賀峯一海軍大将 出典:水交会編 (1985年) 回想の日本海軍、原書房

 

まとめ

連合軍の本格的な反攻作戦の前に、太平洋に浮かぶ小さな島々に十分な戦力を回すことのできなくなった日本軍は、キスカ島を除いては守備隊の救出も満足にする余裕がなく、各地で玉砕という名の全滅を繰り返しました。

当然戦力はそのたびに大きく減っていきました。また、1943年春以降、輸送船の不足などにより、燃料が各地で不足し、満足に作戦遂行ができない状況が浮き彫りになっていました。

玉砕のあった太平洋の島々は、マリアナ諸島(サイパン・グアムなど)とフィリピンへつながる通り道であり、それら日本軍にとって戦略上きわめて重要な地点を失うことに直結していきます。

そして海軍乙事件により、山本長官に引き続き古賀長官までも失った連合艦隊は、大きな打撃をこうむりました。

加えて、機密文書が連合軍に漏れたことで、それまでも暗号は解読されていたものの、より具体的で詳細な作戦情報と戦力が敵に知られることとなりました。に日本でレビュー済み

この本に関連して・・・僕が関係者から直接伺った話です
台湾の陸軍航空隊は石垣島からも特攻攻撃をしていた 石垣島出身の中尉もここ郷里の基地から飛び立った 両親は飛行場の滑走路から息子を見送ったという 「両親も司令官たちも出撃を止められなかった」と特攻機の(整備)技術将校だった知人は語る
35年ほど前 その知人と一緒に靖国神社にお詣りに行った時 隣接する歴史資料館に亡き中尉の写真などが掲示されていた 知人は金縛りにあったように遺影の前から暫く動けなかった
55年ほど前 僕は特攻隊の司令官と手紙の交換をしたことがあった 今思えば戦後15年当時の元司令官は今の僕の歳よりかなり若い その司令官の著書は”特攻隊よく戦いけり”の論調であった 僕の仕事で係った心理学では認知的不協和というものを感じた
参考:当該本に関連して・・・特攻機は整備不良で途中から引き返すことが多かった・・・途中の島に不時着も多い・・・特攻に疑問を持つ整備兵が”発動機に工作”をしていた事実がある  終戦直後 特攻できないまま生き延びた操縦士に「整備兵が工作の旨を告げる」と操縦士は鉄拳でその整備兵を殴り倒した 操縦士の眼には涙が溢れていた
(写真は石垣島と沖縄の関係を示します)
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硫黄島の戦い

B-29の支援・中継基地として

1944年7月にマリアナ諸島から日本軍を駆逐したアメリカ軍は、即座にサイパン島・テニアン島・グアム島などの飛行場を整備し、重爆撃機B-29を配備しました。

1944年11月より、東京や名古屋を始めとする日本本土へB-29で直接空襲を行うようになりました。

しかし、マリアナ諸島から日本本土へは、B-29であればなんとか往復できるものの、より小型である戦闘機は航続距離が足らず、護衛に着くことができませんでした。

B-29は多くの機銃を備えており、多少の戦闘機の攻撃であれば自ら撃退することができましたが、体当たり攻撃も含め、死に物狂いで攻撃を仕掛けてくる日本軍機に日本上空で迎撃されるケースが時折見られました。

また、迎撃や対空砲火で損傷したり、故障したりしたB-29が、空襲を終えマリアナ諸島へ戻る途中に太平洋上に不時着水する機体が増えていきました。

B-29についてはこちら ➡ 日本を襲う銀色の怪鳥-B-29とはどのような飛行機か

日本本土空襲の概要についてはこちら ➡ 【概要】本土空襲

 

アメリカ軍としてはB-29および搭乗員の損害を減らし、より効率的に日本本土を空爆する必要に迫られました。

そのためにはマリアナ諸島と日本本土の間に中継地点を作ることが求められました。

そうして注目されたのが、マリアナ諸島と日本本土のほぼ中間に位置する硫黄島(いおうとう)です。硫黄島から東京へは約1,300㎞であり、航続距離が3,000㎞以上ある最新鋭の陸軍戦闘機(P-51ムスタング)であれば、B-29を硫黄島上空から護衛して戻ってくることができました。

また、故障や損傷により、マリアナまで戻れないB-29を硫黄島に緊急着陸させることで、機体と搭乗員の損失を減らすことができると考えられました。

B-29出発・目標地点と硫黄島の位置関係

[parts:eNozsjJkhAMTs6Q0M1MzY/0U/dTcpNQU+9zMFFtDC4/coKqglDzdYkvdcp/0UnO/ZEfHlEy3AGNPJjMTAyYTCwMAKK4RWQ==]紫=サイパン島
ピンク=硫黄島
青=東京
緑=広島市
紺=長崎市
黒=北九州市
オレンジ=成都(中国)

 

P-51
アメリカの傑作戦闘機「P-51」。太平洋戦争終盤に大活躍し、B-29と共に日本上空を飛び回った。

 

日本軍は持久戦を採用

日本軍にとっても、硫黄島に航空部隊を配備しておけば、本土防衛に効果的であることから、1944年5月の段階で硫黄島の防備を固めることを決めていました。

守備隊は「小笠原兵団」と呼ばれ、栗林忠道(くりばやしただみち)中将が兵団長に就任しました。

1944年10月頃の兵力は約2万1000人(陸軍約1万3500人、海軍約7300人)でした。

ペリリュー島では、劣勢の日本軍が長期間にわたりアメリカ軍を釘付けにすることができたことから、硫黄島でも同じく陣地を固めたうえで、持久戦を行う方針が採られることになりました。

そのため、守備隊は連日地下トンネルを掘ったり、防御陣地の構築に務めました。アメリカ軍上陸を迎える段階で、島全体で18㎞のトンネルがあり(計画では28㎞)、「摺鉢山」(すりばちやま)には強力な砲陣地を構築していました。

アメリカ軍の硫黄島上陸計画図
アメリカ軍の硫黄島上陸計画図。左下の "MOUNT SURIBACHI" が摺鉢山。"AIR FIELD 2" が元山飛行場。

 

アメリカには予想外だった激戦

アメリカ軍は硫黄島上陸のずっと以前から、たびたび大規模な空襲を行っていました。

それまでの経験から、アメリカ側は硫黄島は5日から10日もあれば落とせるだろうと楽観していました。

そしてフィリピンにおける陸上戦が、レイテ島からルソン島へ移った後の2月19日、ついにアメリカ軍は硫黄島へ上陸を開始しました。

日本軍は敵が十分に上陸したところを見計らい、一斉に砲撃を開始。この時上陸したアメリカ海兵隊に大きな犠牲を出しました。上陸初日でアメリカ軍は死者501名、負傷者1,755人を出しました。

硫黄島に上陸して進撃するアメリカ海兵隊。奥に見えるのが摺鉢山
硫黄島に上陸して進撃するアメリカ海兵隊。奥に見えるのが摺鉢山

 

激戦は続き、5日目にアメリカ軍は島の南西部の摺鉢山へアメリカ国旗を立てました。

この写真はメディアを通じてアメリカの戦意高揚に大きな役割を果たすと同時に、写真に写っていた兵は英雄扱いをされ、政府が不足していた戦争のための資金を調達する目的で、アメリカ各地を回りました。

摺鉢山に旗を立てる写真をかたどった、合衆国海兵隊戦争記念碑
摺鉢山に旗を立てる写真をかたどった、合衆国海兵隊戦争記念碑

 

上陸三日目の夕方、日本海軍の航空機31機が突如現れ、アメリカ軍空母へ特攻攻撃を行いました。

正規空母「サラトガ」に被害を与え、護衛空母「ビスマルク・シー」はこの攻撃により沈没しました。硫黄島の戦いの間でこれが唯一の航空特攻でした。

摺鉢山以外でも、島の中央部に位置する「元山飛行場」を始めとして各地で激戦が続きました。

一進一退の攻防を繰り広げ、アメリカ軍にも犠牲者が続出しました。

日本軍は巧妙に隠した大砲や機関銃をいたるところに配置しており、アメリカ軍はそれを一つずつ攻め潰していかなければなりませんでした。日本兵は大砲や機関銃が破壊されると、爆雷を胸に抱いてアメリカ軍の戦車に体当たり攻撃を行いました。

一方のアメリカ軍は、日本兵が潜む洞窟陣地を火炎(かえん)放射器や火炎砲戦車で焼き払ったり、豪の中に手りゅう弾を投げ込んでいきました。

火の届かない洞窟陣地内に対しては、入り口を爆破しふさいだうえで、洞窟の上から機械で岩を開け、猛毒の黄燐(おうりん)とガソリンを流し込み火をつけていきました。

日本軍は多大な犠牲を出しましたが、アメリカ兵が日本兵の死体を目にすることはそれほど多くありませんでした。

多くの日本兵は洞窟の中で爆死・焼死・窒息死していたのです。日本兵は洞窟に潜み、隙を見て出撃し、アメリカ兵は洞窟を一つずつしらみつぶしにするということが連日行われました。

硫黄島の壕を焼くアメリカの火炎砲戦車(M4A3シャーマン)
日本軍の立てこもる壕を焼くアメリカの火炎砲戦車(M4A3シャーマン)

 

日本軍玉砕

硫黄島の日本軍司令部は、3月16日、東京の大本営に対し「17日に玉砕する」旨の電報を発信しました。

しかしアメリカ軍に壕を包囲されて出ることができず、玉砕は3月25日深夜に行われました。

司令部の総攻撃・玉砕に当たっては、豪内の重症患者を自決(じけつ=名誉を保つために自殺すること)させ、身動きの取れない患者には軍医が注射して殺して回りました。

小笠原兵団 栗林中将が大本営に送った決別の電文

 戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来 麾下将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭シムルモノアリ 特ニ想像ヲ越エタル量的優勢ヲ以テスル陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ 宛然徒手空拳ヲ以テ 克ク健闘ヲ続ケタルハ 小職自ラ聊(いささ)カ悦ビトスル所ナリ

  然レドモ 飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ 為ニ御期待ニ反シ 此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ 小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘザル所ニシテ幾重ニモ御詫申上グ 今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ 最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方(あた)リ 熟々(つらつら)皇恩ヲ思ヒ 粉骨砕身モ亦悔イズ 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ 皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ 誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス 茲(ここ)ニ最後ノ関頭ニ立チ 重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管(ひたすら)皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ 永ヘニ御別レ申シ上グ
  尚父島母島等ニ就テハ 同地麾下将兵 如何ナル敵ノ攻撃ヲモ 断固破摧シ得ルヲ確信スルモ 何卒宜シク申上グ
終リニ左記駄作御笑覧ニ供ス 何卒玉斧ヲ乞フ

  • 国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき
  • 仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ
  • 醜草(しこぐさ)の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思う

出典:Wikipedia 栗林忠道

栗林中将以下約400人はアメリカ軍陣地を襲撃。これまでの「万歳突撃」ではなく、死を覚悟した夜襲でした。

アメリカ軍陣地は大混乱に陥り、53名が死亡、119名が負傷しました。硫黄島の洞窟内にはなお6,000名ほどの日本兵がいたと推定されていますが、その後もゲリラ的に抵抗を続け、終戦までにほとんどが戦死しました。

硫黄島の戦いで、日本軍1万9900人、アメリカ軍6,821人が戦死しました。

栗林忠道中将
栗林忠道中将(写真は大佐時代)。家族思いの優しいお父さんでもあった。

 

硫黄島陥落の影響

硫黄島を占領したアメリカ軍は、予定通り飛行場を修復し、大量の戦闘機を配備しました。

3月10日の東京大空襲を皮切りに、日本本土への無差別焼夷弾爆撃が本格化していきますが、その進行に硫黄島の基地は大きな役割を果たしました。そしてアメリカ軍はいよいよ沖縄へと軍を進めることとなります。

寒さからの救済、寒さ、自宅でジンジャーバーフィをお試しください

  • Janvi Bithalにより編集、
  • 更新:2020年7月11日10:46 AM
सर्दी-जुकाम से मिलेगी राहत, घर पर ट्राई करें अदरक की बर्फी

モンスーンはノックアウトしたので、多くの人々が雨に浸されて寒さの餌食になります。そのような状況では、風邪や風邪を取り除くための家庭薬からの良い治療法はなく、生姜は風邪に最適です。お茶にも使われますが、生姜も多くの野菜に使われていますが、甘いものが好きなら、今日はモンスーンの寒さと寒さを乗り切ることができる甘い生姜のレシピを紹介します。滞在します

PunjabKesari

ジンジャーバーフィを作るには、

1.生姜-200グラム

2.砂糖-300グラム

3.ギー-小さじ2

4.カルダモン-10

PunjabKesari
方法は何ですか

1.ジンジャーバーフィを作る前に、それを完全に洗って、その上にあるすべての細菌を取り除きます。 
2.洗浄後、カットし、牛乳を少し加えてよくすりつぶします。その後、ペーストになります。
3.次に、フライパンを取り、ギーを加えて加熱します。ギーが熱くなったら、ジンジャーペーストを加えて弱火で調理します。 
4.砂糖を入れて攪拌し続けると、そのままにしておくとペーストが焦げてしまいます。 
5.ショウガペーストに砂糖がよく溶けたら、カルダモンを加えます。 
6.次に、皿を取り、その上にバター紙を置き、これらのバッターをその中に入れて、冷まします。 
7.冷却後、このバッターをお好みの形に切ります。 

PunjabKesari

美味しくて健康的なジンジャーバーフィをどうぞ。

 

ちょいと前になりましたが、夜の植物園に行った話。

 

毎年、9月の土日には広島市植物公園は夜間営業します。

 

夜にしか咲かない花がみられたり、イルミネーションや

 

屋台もでて、いろんな世代の人でにぎわってます。

 


 

今年初登場、富士山のイルミネーション。

 

 


夜に花咲くオオオニバス。ほとんど散りかけですが。

 


 

フクシャがきれいでした。

 


 

展望台までのぼると五日市 廿日市の夜景が

 

楽しめます。右下の明るいとこは植物園。

 

 

毎年、イエライシャンの花がみたくて大温室のぞくのですが

 

今年もまだ花が咲いてませんでした。

 

そしたらば、花やさんが これもイエライシャンですよ、

 

って、持ってきた花。

 


 

チューベローズといいます。

 

歌に歌われたイエライシャンとは違うようですが

 

(そういえば李香蘭さんなくなられましたね)

 

夜にひときわ強く香るところは同じです。(今はもう売ってません・・・)

 

 

ということで今年も大変楽しみましたー!

 

明日あさってもやってますので、興味のある方は、ぜひ。

 

五日市駅から無料バスでてます。

 

 

 

久々入荷。

 


タンザニアの誇る、こだわりインスタントコーヒー、

 

カフェバラカのお試しサイズです。

 

一袋だいたい5杯分。めぐります。

 天地・神仏の声も聴きながら、叡智を振り絞って、また頑張りましょう。キヨ拝
  「今この瞬間が,過去、未来、そして来世をつくる」

 
土肥 雪彦

 夕方、オバマ大統領が平和公園到着。土谷総合病院高層階の平和公園側窓を開けると「窓を閉めて下さい」の電話が来てビックリでした。
 オバマさんはテレビで拝見しても素晴らしいスピーチとパーホーマンスでしたね。わたしも被爆者の一人ですから分かりますが、人それぞれが異なる、厳しく深い感慨を抱かれたことでしょう。祈りを捧げるためか、みなさん次々と夜の平和公園に向かっていました。
 今回の出会いと対話・交流が、寛容と大きな愛に繋がり、次世代に向けて平和回帰の兆しになるよう、祈っております。キヨ拝
 「今この瞬間が、過去、未来、そして来世を創る」

 
 
コメント
 
  • 熊山 雅久
    熊山 雅久 土谷病院からはこんなにもよく見えるんです

    オオカミの再導入

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
     
     
    ナビゲーションに移動検索に移動
     
    イエローストーン国立公園のオオカミ(ハイイロオオカミ)Canis lupus occidentalis
    追跡調査用に電波発信機つきの首輪をつけている

    オオカミの再導入(オオカミのさいどうにゅう)とは、オオカミ絶滅した地域に、人為的にオオカミの群れを再び作り上げることである。オオカミにとって適した自然環境が広い範囲で残っており、同時に獲物となる生物が十分にいる地域である場合に限って検討される。以下、この記事中では単に「再導入」と表記

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    川本 省三インタビュー | ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビュー - 継ぐ展

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    1.  
    2017/06/21 - 両親や兄弟を原爆で亡くし、原爆孤児として生きてきた川本省三さん(83)。 路上生活をしていた子どもたちと過ごした日々や、賭け事と喧嘩を繰り返した青年期、母の言葉を思い出して更生するまでのお話を伺いました。 Section1語り始めた ...

    平和つなぐ継承ヒロシマ(2)差別に絶望 出自隠す | 社会 | カナロコ ...

    www.kanaloco.jp › 記事
     
    1.  
    2019/08/28 - 11歳の夏、川本省三さん(85)=広島市西区=の人生は大きく狂った。両親と2人の姉、弟、妹。原爆は全てを奪い去った。「戦災孤児がどんな暮らしをしていたかみんな知らない。伝えねばならない」。命ある限...

    『記憶を受け継ぐ』 川本省三さん―「諦めるな」が母の教え ...

    www.hiroshimapeacemedia.jp › ...
     
    1.  
    2.  
    記憶を受け継ぐ』 川本省三さん―「諦めるな」が母の教え. 12年12月25日. 川本省三かわもと・しょうそう)さん(78)=広島市西区. 死に場所探しもした。でも人生やり直した. 原爆に両親ときょうだいの計6人を奪(うば)われた川本省三さん(78)。「諦(あきら)めて ...

    爆落下中心地の側を流れる下の川。75年前の被爆直後、この川に水を求めて人々が群がり、そのまま息絶えて川の流れを堰き止めるほどご遺体が重なり合っていたという。父は翌日その惨状を見ている。

    爆心地からその下の川に降りる所に、当時の地層が見られる場所がある。それを市に要請し実現させたのが竹下芙美さんだ。

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    写真:修学旅行生に体験を語る笠岡貞江さん=広島市中区の平和記念資料館拡大修学旅行生に体験を語る笠岡貞江さん=広島市中区の平和記念資料館

    写真:笠岡さんの家族写真。前列左端が笠岡貞江さん、隣が祖母、右端は母キチさん。後列右端は兄吉太郎さん、右から2人目は父品次郎さん=笠岡貞江さん提供拡大笠岡さんの家族写真。前列左端が笠岡貞江さん、隣が祖母、右端は母キチさん。後列右端は兄吉太郎さん、右から2人目は父品次郎さん=笠岡貞江さん提供

     

     広島市西区 笠岡貞江さん(87)

     

     父の体は真っ黒になっていた。お酒が好きだったのに、ビールを口元に注ぐと、のみ込む力はなく、こぼれていった。母の元気な姿も再び見ることはなかった。12歳だった笠岡貞江さん(87)=広島市西区=は、両親を失った被爆体験を修学旅行生に語っている。若い世代に伝えたい思いを聞いた。

     

        ■    □    ■

     

     あの夏、進徳高等女学校(現・進徳女子高校)の1年生だった。空襲の延焼を防ぐため、建物を取り壊す「建物疎開」の作業などをしていた。

     

     青空が広がった8月6日の朝。両親はすでに友人の建物疎

    被爆体験記 | ワールド・フレンドシップ・センター

    wfchiroshima.com › hibakusha-stories
     
    1.  
    2.  
    現在WFCで被爆証言をして頂いている方. 岡田 恵美子さん. 岡原 民幸さん. 笠岡 貞江さん. 梶矢 文昭さん. 河野 きよみさん. 米吉 喜代子さん. 西田 吾郎さん. 畑口 實さん. 堀江 壮さん. World Friendship Center. TEL 082-503-3191. 日本人スタッフ 毎週火〜金 ...

    Bar swallowtail - 毎月恒例の6日は原爆語り部の日です。被爆 ...

    ja-jp.facebook.com › photos › 毎月恒例の6日は原爆...
     
    1.  
    笠岡貞江(かさおか・さだえ)さん(85歳) 女学校1年生の12歳のとき、江波の自宅(爆心地から約3.8km)で被爆。建物疎開の作業を手伝うため雑魚場町へ出かけた両親は、父は8日、母は似島で死亡。両親を失った笠岡さんは戦後、兄弟に育てられたという。

    ああ! 幽霊だ!! 被爆体験証言者

    hpmmuseum.jp › index.php › view › motomachi14
     
    1.  
    PDF
    幽霊だ!! 被爆体験証言者 笠岡 貞江(かさおか さだえ)氏 絵の作者 髙山 愛季(たかやま あき)氏 (広島市立基町高校3年). 父のために畑にトマトを取りに走って行く時、ふと顔を上げた瞬間、白い幽霊の行列が目の前を行進していた。その場は逃げたが、後から.
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    オオカミの再導入

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
     
     
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    イエローストーン国立公園のオオカミ(ハイイロオオカミ)Canis lupus occidentalis
    追跡調査用に電波発信機つきの首輪をつけている

    オオカミの再導入(オオカミのさいどうにゅう)とは、オオカミ絶滅した地域に、人為的にオオカミの群れを再び作り上げることである。オオカミにとって適した自然環境が広い範囲で残っており、同時に獲物となる生物が十分にいる地域である場合に限って検討される。以下、この記事中では単に「再導入」と表記

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    川本 省三インタビュー | ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビュー - 継ぐ展

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    2017/06/21 - 両親や兄弟を原爆で亡くし、原爆孤児として生きてきた川本省三さん(83)。 路上生活をしていた子どもたちと過ごした日々や、賭け事と喧嘩を繰り返した青年期、母の言葉を思い出して更生するまでのお話を伺いました。 Section1語り始めた ...

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    2019/08/28 - 11歳の夏、川本省三さん(85)=広島市西区=の人生は大きく狂った。両親と2人の姉、弟、妹。原爆は全てを奪い去った。「戦災孤児がどんな暮らしをしていたかみんな知らない。伝えねばならない」。命ある限...

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    記憶を受け継ぐ』 川本省三さん―「諦めるな」が母の教え. 12年12月25日. 川本省三かわもと・しょうそう)さん(78)=広島市西区. 死に場所探しもした。でも人生やり直した. 原爆に両親ときょうだいの計6人を奪(うば)われた川本省三さん(78)。「諦(あきら)めて ...

    爆落下中心地の側を流れる下の川。75年前の被爆直後、この川に水を求めて人々が群がり、そのまま息絶えて川の流れを堰き止めるほどご遺体が重なり合っていたという。父は翌日その惨状を見ている。

    爆心地からその下の川に降りる所に、当時の地層が見られる場所がある。それを市に要請し実現させたのが竹下芙美さんだ。

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    写真:修学旅行生に体験を語る笠岡貞江さん=広島市中区の平和記念資料館拡大修学旅行生に体験を語る笠岡貞江さん=広島市中区の平和記念資料館

    写真:笠岡さんの家族写真。前列左端が笠岡貞江さん、隣が祖母、右端は母キチさん。後列右端は兄吉太郎さん、右から2人目は父品次郎さん=笠岡貞江さん提供拡大笠岡さんの家族写真。前列左端が笠岡貞江さん、隣が祖母、右端は母キチさん。後列右端は兄吉太郎さん、右から2人目は父品次郎さん=笠岡貞江さん提供

     

     広島市西区 笠岡貞江さん(87)

     

     父の体は真っ黒になっていた。お酒が好きだったのに、ビールを口元に注ぐと、のみ込む力はなく、こぼれていった。母の元気な姿も再び見ることはなかった。12歳だった笠岡貞江さん(87)=広島市西区=は、両親を失った被爆体験を修学旅行生に語っている。若い世代に伝えたい思いを聞いた。

     

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     あの夏、進徳高等女学校(現・進徳女子高校)の1年生だった。空襲の延焼を防ぐため、建物を取り壊す「建物疎開」の作業などをしていた。

     

     青空が広がった8月6日の朝。両親はすでに友人の建物疎

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    ああ! 幽霊だ!! 被爆体験証言者

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    崩壊する戦線(1)―地獄のニューギニア戦線(概要)

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    ガダルカナル島からの撤退は、太平洋戦線の最前線であるソロモン諸島において、日本軍の劣勢が決定的になった出来事でした。

    以降、堰を切ったように連合軍の攻勢は勢いを増し、逆に日本軍は各所で敗退・全滅(玉砕)を続けていきます。「崩壊する戦線(1)」では、地獄と呼ばれたニューギニア戦線を概観します。

     

    ニューギニア島とは

    ニューギニア島はオーストラリアの北に浮かぶ、広大な島で、日本の約2倍の面積があります。

    熱帯性気候で低地はジャングルに覆われているものの、島の中央部を東西に4000m級の高山が連なっているため、標高の高い場所は冷涼な気候となっています。

    戦前、島の西半分はオランダ、東半分はオーストラリアの植民地となっていました。

    ニューギニア島の地形図
    ニューギニア島の地形図。東西に島の中央を高い山が走っている。山の南北は熱帯雨林に覆われている。

     

    <概要>形勢逆転の太平洋戦線-MO作戦・ミッドウェー海戦・ガダルカナル島をめぐる戦い」で見たように、日本軍はニューギニア島「ポートモレスビー」から飛来する、ラバウルやラエ、サラモアと言った日本軍基地への連合軍の爆撃隊を阻止するために、ポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)を発令しました。

    しかし、それを阻止しようとするアメリカ軍空母との戦い(珊瑚海海戦)の影響により、MO作戦は中止となったため、ポートモレスビーを中心としたニューギニア島の連合軍の攻撃拠点はその後も日本軍の脅威となりました。

     

    ニューギニア・ソロモン諸島と主要地域の位置関係

    [parts:eNozsjJkhAMTs6Q0M1MzY/0U/dTcpNQU+9zMFFtDPz//7MIMV1+fsNJws0jzUqNUM8+ipGzLbG8TJjMTAyYTCwMAKfERcA==]青=ラバウル(日本軍拠点)
    ピンク=ポートモレスビー(ニューギニア、連合軍拠点)
    紫=ガダルカナル島(アメリカ軍基地)
    緑=ハワイ真珠湾(アメリカ太平洋艦隊拠点)
    黒=ミッドウェー島(アメリカ軍基地)
    オレンジ=東京
    茶色=シンガポール(日本海軍基地)

     

    海からのポートモレスビー攻撃を断念した日本軍は、ニューギニア島を縦断する陸路で攻略することにします。

    アメリカ軍によるガダルカナル島上陸と同じタイミングである1942(昭和17)年8月、ニューギニアの日本軍(南海支隊)はブナから山を越え、ポートモレスビーを目指しましたが、途中で食糧が尽きたために撤退。

    戻るべき「ブナ」では連合軍との激戦が始まっており、その戦いに敗れた日本軍は北のラエ・サラモア付近まで退却をしました。

    東部ニューギニア戦線関係図1

    [parts:eNozsjJkhAMTs6Q0M1MzY/0U/dTcpNQU+9zMFFvDSpOgwKhgt6CywHxvI9+cSgNzA8swF6cc07xAJjMTAyYTCwMAIrYRFA==]オレンジ=ダンピール海峡
    青=ラバウル
    紫=ポートモレスビー
    緑=ブナ
    ピンク=サラモア
    黒=ラエ

     

    ダンピールの悲劇

    ガダルカナル島を失った約1か月後の1943(昭和18)年2月28日、日本軍は東部ニューギニアを防衛するため、第51師団約7000名の兵を乗せた輸送船団をラバウルからラエへ出発させました。

    3月2日と3日、その輸送船団へ連合軍の爆撃隊が空襲を行い、8隻の輸送船全てと護衛の駆逐艦4隻を失い、輸送した兵の約半数にあたる3000人が溺死しました。

    3日に「ダンピール海峡」に差し掛かった時に攻撃を受けたため、この出来事は「ダンピールの悲劇」と呼ばれています。生存者は駆逐艦に救助されてラバウルに引き返し、ニューギニアに上陸したのはごく一部となりました。

    これにより、日本の東部ニューギニア防衛構想は破綻することとなりました。

     

    ダンピール海峡で連合軍の攻撃を受け炎上する日本軍輸送船「旭盛丸」
    連合軍の攻撃を受け炎上する日本軍輸送船「旭盛丸」(大同海運5,493総トン)
    ダンピール海峡で連合軍の攻撃を受ける日本軍輸送船「太明丸」
    攻撃を受ける日本軍輸送船「太明丸」

     

     

    い号作戦

    ダンピール海峡での輸送作戦失敗後、山本五十六連合艦隊長官は、大規模な航空作戦を決定しました。

    当時数々の戦闘で大損害を受けた日本空母部隊は再建途中でしたが、それでもその時点で使うことのできる空母搭載機や、基地航空隊の合計400機近い航空機をラバウル周辺の基地へ集め、4月7日から14日にかけて4回ほど、ガダルカナル島や東部ニューギニア島の連合軍艦船や基地へ大規模な空襲を行いました(い号作戦)。

    その結果、日本軍は多くの敵艦船や航空機を撃破したと判断。大戦果を挙げたと喚起にわきましたが、実際は日本軍の搭乗員が未熟なため戦果の判断に誤りが多く、連合軍側は大きな損害は受けていませんでした。

    一方で、日本側はさらに多くの搭乗員および航空機を喪失することとなり、航空戦力の一層の減退を招きました。

    い号作戦時の日本海軍艦上爆撃機の部隊(ブナカナウ基地)
    い号作戦時の日本海軍艦上爆撃機の部隊(ブナカナウ基地)

     

    山本長官機撃墜事件(海軍甲事件)

    い号作戦終了後、ラバウルにいた山本長官は、最前線のブーゲンビル島基地などへ、士気高揚のための視察を行うことにしました。この視察にはかなりの危険が伴うため、部下から止めるようにと進言がありましたが、山本長官は聞き入れませんでした。

    そして4月18日、2機の海軍爆撃機(一式陸上攻撃機)に分乗した山本長官と幕僚(ばくりょう=司令部の幹部)たちは、6機の護衛の零戦に守られてラバウルを出発。護衛機を増やすようにとの部下からの進言も、山本長官は拒否しました。

    山本五十六
    い号作戦終了後の4月18日、訓示・敬礼する山本長官。この姿が山本長官を捉えた最後の写真となった。

     

    この視察計画の暗号電文はアメリカ軍に全て解読されており、スケジュールまで正確に読まれていました。

    そこで、この方面を監督するアメリカ海軍中枢部では山本長官機の撃墜を検討します。日本海軍には山本長官よりも優れた指揮官となる人材がいないと分析、撃墜した方が今後の戦いを有利に進められると結論を出し、ルーズベルト大統領に撃墜計画の承認を求めました。

    ルーズベルトの承認を受け、17機の攻撃機による襲撃計画を具体化させたアメリカ海軍は、時間通りに予定通りのコースを飛行してきた山本長官機の撃墜に成功しました。

    ジャングルに墜落した一番機は山本長官を含む全員が死亡。連合艦隊司令長官の後任には、古賀峯一大将が就任しました。

    真珠湾奇襲攻撃の成功以来、国民的英雄となっていた山本長官の死は日本国民に大きな衝撃を与えました。

    国として葬儀を執り行う「国葬」(こくそう)がなされ、山本長官の仇を討てとばかり、国民の間では報復熱が高まる一方、海軍の士気は下がっていきました。

     

    山本長官機撃墜事件関係図

    [parts:eNozsjJkhAMTs6Q0M1MzY/0U/dTcpNQU+9zMFFvDgCTdsJwcnzQjLy9vnzDX8pDCSN+IwJTSyLBiJjMTAyYTCwMAKs8Ryw==]紫・点=ラバウル、紫・線=日本側飛行経路
    ピンク=撃墜地点付近
    緑=山本長官視察目的地の一つ「ブイン」
    オレンジ・点ガダルカナル島、オレンジ・線=アメリカ軍襲撃部隊飛行経路

     

    死んでも帰れぬニューギニア

    ラエ・サラモアを守る日本軍は、アメリカ軍と3か月戦ったのち、1943年9月に撤退しました。標高4千メートル、富士山より高い「サラワケット山」を越え、北方のキアリという場所で別の軍団と合流。この間、険しい山を乏しい食糧で、しかも重装備で行軍したため、転落死や傷病死する兵が相次ぎました。

    その間にアメリカ軍は先回りするように日本軍の前に出ていました。以降、内陸を移動する日本軍の進軍を、海路移動するアメリカ軍が常に先回りし、日本軍は戦闘を行いつつ、攻撃を受けやすい海岸を避け内陸の高山地帯をつたって西へ退避することを繰り返していきました。

    ブナの日本軍を攻撃するアメリカ軍軽戦車(1943年1月2日)
    ブナの日本軍を攻撃するアメリカ軍軽戦車(1943年1月2日)

     

    日本軍は総勢14万人もの将兵を東部ニューギニアに送り込んだものの、ジャングルの高山地帯の移動で大砲などの重い武器をまともに運ぶことができず、アメリカ軍の100分の1とも言われるほど劣勢な火力で戦うことを強いられました。

    さらに、食糧も医薬品も乏しく、ほとんどが飢えと病死で死んだと言われるガダルカナル島の戦いの悲惨な状況がここでも繰り返されました。

    ガダルカナル島では、戦略的な重要地点として、陸・海・空全てで日本とアメリカ軍が死闘を繰り広げましたが、東部ニューギニアをめぐる戦いでは、日本軍は空も海もアメリカ軍に対し圧倒的に劣勢になり、内陸にこもる日本軍をアメリカ軍は積極的に相手にせず、主力はサイパン方面へどんどん進んでいきました。

    ニューギニアの日本軍は置いてけぼりを食った形となり、かといってアメリカ軍を撃退するような力はもはや無く、終戦までの約1年間「ウエワク」という地域の後方の高原地帯で自活生活をしながら、時々遊撃戦を挑むという格好になりました。

    日本軍は総勢14万人のニューギニア島上陸兵のうち、わずか1万2千名が生き残ったものの、終戦から日本に戻る間にも死亡者が続き、日本に帰還できたのは約1万人しかいませんでした。

     

    東部ニューギニア戦線関係図2

    [parts:eNozsjJkhAMTs6Q0M1MzY/0U/dTcpNQU+9zMFFvDQK8ioyiLpPzU/Einkrxg97zSUrPy3AA378JsJjMTAyYTCwMANxoSSg==]オレンジ=サラモア
    ピンク=ラエ
    緑=サラワケット山
    黒=キアリ
    青=ウェワク

     

    ウェワクで日本軍陣地を攻撃するオーストラリア兵(1945年6月)
    ウェワクで日本軍陣地を攻撃するオーストラリア兵(1945年6月)

     

    太平洋戦争末期、日本兵の間では次のような言葉が口にされたと言います。

    ジャワの極楽 ビルマの地獄

    死んでも帰れぬ ニューギニア

    (最後まで連合軍の攻撃を受けなかったジャワ(インドネシア)は南海の極楽のようであり、日本兵の死体で埋め尽くされ、「白骨街道」と呼ばれたインパール作戦のあったビルマ(現ミャンマー)は地獄そのもの。ニューギニアは生き延びることはおろか、死んで骨となってすら帰ることもできないほど、凄惨な戦場だった)

     

    第十八軍司令官足立二十三(はたぞう)中将
    連合軍に降伏するニューギニア守備の第十八軍司令官安達二十三(はたぞう)中将。この後、安達中将は戦犯として拘留されている間に自決した。
    菅原オレンジ農場&広島ミニヤギ牧場
    アクセスカウンター
    みんなのふるさと元気にな~れ since 2007(平成19)年11月22日  
    小さいときに美しい思い出をたくさんつくっておくことだ。それが「生きる力」になる。学校を出てどこかへ勤めるようになると,もうこんなに歩いたり遊んだりできなくなる。いそがしく働いて一息入れる時,ふっと,青い空や夕日のあたった山が心にうかんでくるとそれが元気を出させるもとになる   (『民俗学の旅』宮本常一より)。
    菅原オレンジ農場は,広島県呉市下蒲刈町の大地蔵地区にある、昔からのみかん園です。農園は ゆっくりと時間が流れる、静かな海の見える丘にあります。やわらかな風と青い海とみかんの緑の中で穏やかな時間を過ごしたり、ミニヤギとふれあったりしながら、ほっとできる場所にしたいと願い、手作りで始めました。農園の中心にある「百年葉みかん」の木は農場のシンボルです。下蒲刈町で「小みかん」の栽培が始まって今年で483年。(天文6年ー1537年から)。しかし、高齢化や農業を継ぐ若者がいなくなり、生産量が減ってきました。江戸時代から下蒲刈町で植えら、栽培されてきた伝統的果物である「小みかん」。ふるさとの味を大切に守っていきたいですね。  
     
    みかん&イチジクの収穫(10月~)

    ヤギとふれあい(随時)
     
    レモン園見学/収穫体験1月~

    栗ひろい体験 9月~
    Last Up date2020令和27月7(火)

    1月31日

    @yokohama_cyahei

    横浜茶平会@yokohama_cyahei

    広島市植物公園
    バス停から上り坂です。 pic.twitter.com/CJkfqjDSNc

    posted at 10:50:36 

     

     

    持ち運びに便利。旅行などのお供にどうぞ。

     

     

    190円。

    広島市植物公園 (広島県広島市佐伯区)

     

     広島県広島市佐伯区にある広島市植物公園です。JR五日市駅北口から植物公園までバスで20分位ですが、植物公園に止まる便は少ないです。私は歩くのが好きなので、泊まる便の多い、城山からなら約20分、薬師が丘入口からなら10分程度歩けば行けます。  
     フジ棚や花の迷路(コスモス)等は、季節で無いので花がありませんが、シーズン中は綺麗に咲き誇ります。大花壇は、何時もならパンジー等とか植えてあるんですが、植え替え時期だったのか、今回は花が無かったです 。 

     

     

    अंनिता डोंगरे की स्पैशल विंटर ब्राइड कलेक्शन (see pics)

    • Edited By Sunita Rajput,
    • Updated: 10 Aug, 2019 02:27 PM
    अंनिता डोंगरे की स्पैशल विंटर ब्राइड कलेक्शन (see pics)

    कहा जाता है दुल्हन लाल जोड़े में ही सबसे खूबसूरत लगती है ,लाल से बेहतर और ब्राइट रंग शादी के ख़ास दिन के लिए हो ही नहीं सकता, पर अनीता डोंगरे के 2019 विंटर ब्राइड कलेक्शन के 'विविड वायलेट' ने इस सोच को बिलकुल गलत साबित कर दिखाया। विविड वायलेट की चमक किसी भी दुल्हन के स्टाइल और पर्सनालिटी को बेहतरीन ही नहीं बल्कि बाकी दुल्हनों से हट के बनाएगी। चलिए उनके कलेक्शन की कुछ झलकियां आपको भी दिखाते है।  

     यह ऑउटफिट ट्रेंडी और स्टाइलिश दोनों है जो किसी भी मॉडर्न लड़की की पहली पसंद बन सकती है। 

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    अगर आप होने वाली ब्राइड है और अपने ग्रूम के साथ मैचिंग ऑउटफिट पहनना चाहती है तो यह शेरवानी उनके लिए परफेक्ट रहेगी। 

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    यह ऑफबीट कलर सबकी आंखो का तारा बनना शुरू हो गया है ,बनारसी टच इस लहंगे को ट्रेडिशनल लुक दे रहा है वहीं इसका ऑफबीट रंग इसे मॉडर्न बना रहा है। 

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    आप भी स्टाइलिश और ट्रेंडी बनने के लिए इन ड्रेसेस को अपने सबसे खास दिन पर पहनने के लिए चुन सकती है।  

    スワラは結婚式で11,800のサリーを着用しました。ブラウスの価格は彼女の感覚を吹き飛ばします(写真を参照)

    コロナに感染した人の数は増えていますが、人々はまだ幸せを楽しむのをやめていません。封鎖が始まるとすぐに、人々は結婚に縛られ始め、簡単な方法で結婚する人もいれば、親族間の神聖な関係の儀式を続ける人もいます。これだけでなく、多くの有名人もこの時期に結婚しました。最近、女優のスワラバスカーが自宅での結婚式に出席し、サリールックから脚光を浴びました。 

    パンジャブケサリ

    スワラは母方の叔父の結婚式でサリーを着ていた

    スワラはまた、彼女のInstagramで結婚式の機会のいくつかの写真を共有し、ママの一時的な刺青の儀式で、スワラは彼女がマゼンタ色の作品を手に入れた有名なハンドルームロウマンゴーの「ランギラニ」コレクションのデザイナーシルクサリーである美しいサリーを着ていました。約14,800ルピーのカラーブラウスを着ていました。同時に、サリーのデザインについて話すと、彼のオレンジ色のチャンデリシルクサリーの広い境界線は、さらにインタラクティブな外観を与えていました。 

    パンジャブケサリ

    サリーよりブラウス価格 

    サリーの値段について話すと、あなたも聞いて驚かれることでしょう。スワラのデザイナーサリーの価格は11,800ルピーです。スワラはこのサリーで非常に完璧に見えました。これはモンスーンの結婚式に最適なオプションです。同時に、スワラのゴールドジュエリーとセンターパーティングは、より魅力的な外観を彼女に与えていました。 

    パンジャブケサリ

    モンスーンの結婚式のドレスのアイデアも必要な場合は、このサリーとスワラの色からアイデアを取り入れることができます。必要に応じて、Raw Mangoの公式Webサイトにアクセスして、同様のサリーを注文できます。 

    Komal Pandey:ट्रेडिशनलमेंदिखेगामॉडर्नजादू

    • shipra ranaによって編集され、
    • 更新:2020年4月6日11:46 AM
    Komal Pandey: ट्रेडिशनल में दिखेगा मॉडर्न जादू

    अक्सरदेखागयाहैकिलड़कियांइंस्टाग्रामसेबहुतज्यादाइन्फ्लुएंसहोतीहै。उन्हेंइंटरनेटपरदीवाजसेलेकरहरस्टाइलिस्टकोफॉलोकरनाबेहदपसंदहै。ऐसाहीएकनामहैजोहरटीनएजरकेमुंहपरचढ़ाहुआहैऔरवोहैकोमलपांडेका。उनकास्टाइलबिलकुलअलगहै。वोट्रेडिशनलड्रेसमेंमॉडर्नजादूबिखेरतीहै。आइएआपकोउनकेस्टाइलकीएकखासझलकदिखातेहै。 

    ヘリテージファッション:हेरिटेजब्राइडलकलेक्शनपरआपभीडालिएएकनजर

    • shipra ranaによって編集され、
    • 更新:2020年2月26日05:21 PM
    Heritage Fashion: हेरिटेज ब्राइडल कलेक्शन पर आप भी डालिए एक नजर

    सब्यसाचीमुखर्जीहमेशाअपनेयूनिककलेक्शनसेलोगोंकोइम्प्रेसकरतेहै。एकबारफिरउन्होंनेअपनेकलेक्शनसेहरकिसीकादिलजीतलियाहै。इसबारउन्होंनेहेरिटेजब्राइडलकलेक्शनसेसबकोफैशनकीपरिभाषासिखाईहै。रॉयलफैशनकोस्टाइलिशऔरएकनयारूपदेकरउन्होंनेइसकलेक्शनमेंजानडालदीहै。ज्वेलरीसेलेकरहरकपडेकेडिज़ाइनकेबारेंमेंउनकाकुछअलगकहनाहै。अपनेइंस्टाग्रामपेजपरउन्होंनेअपनीहरड्रेसकेबारेंमेंकुछअलगकहाहै。ताजमहलप्रिंटडक्लचऔररत्नकेसमूहवालेहारकिसीभीलड़कीकोदीवानाबनासकतेहै。यही-नहींलड़कोकेलिएभीसब्यसाचीमुखर्जीनेकुछअलगस्टाइलपेशकिएहै。 

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    जैसे-एकलाइनमेंउन्होंनेलिखाहैकि 'सुर्खफूलोंसेमहकउठतीहैंदिलकी राहें ' यहपंक्तिउमरावजाननेलिखीथी。उन्होंनेइनसेइंस्पायरहोकरयहकलेक्शनतैयारकियाहै。 

    डीप नेक या फुल कवर ब्लाउज, साड़ी-लहंगे के साथ क्या करेगा सूट?

    結婚式の日、花嫁はサリーまたはレヘンガを着て、ブラウスのデザインはドレスをパーソナライズします。あなたのサリーがどれほどゴージャスであろうと、リーヘンガがどれほど優雅であろうと、ブラウスが完璧ではない場合、それはあなたの全体の見た目を台無しにする可能性があります。

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    バックレス、フルスリーブ、ホルターネックなど、スタイリッシュなブラウスのデザインは数多く見られます。しかし、サリーとリーヘンガでは、フルカバーとディープVネックブラウスの方が適しています。これだけでなく、多くのボリウッドディーバは、フルカバーまたはディープVネックデザインのブラウスの着用を好みます。 

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    しかし、女性はこれらのブラウスをサリーやリーヘンガでスタイリングする方法を理解していません。そのような状況では、本日はディープVネックのフルカバーとデザインをいくつか紹介するので、心配する必要はありません。そこから、あなたもアイデアを取り入れることができます。

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    まずは冬の季節にぴったりなフルカバーブルーズ。サリーやリーヘンガと一緒に快適に着用できます。

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    女の子が夏に着るのが好きなディープVネックの登場です。しかし、スタイラスの外観に関して言えば、冬は何の効果もありません。

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    そのような状況で、ディープVネックブラウスを入手することを考えている場合は、ここからアイデアを得ることができます。

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    कही आपका वेडिंग लहंगा Duplicate तो नहीं ? यूं लगाए पता

    今日では、オリジナルよりも偽物が市場で入手可能です。これは結婚式ではさらに一般的になります。あなたがあなたの結婚式や他の結婚式のためにキルトを買いに行くとすぐに、あなたは多くのことを世話しなければなりません。これらのことは、さらなる大きな損失からあなたを救うことができます。結婚のとき、女の子はたくさんお金を使う用意があります。この件で、彼女はしばしば偽のlehengaをデザイナーとして購入します。今、これはお金とともに別の損失を引き起こします。それは悪いlehenga生地です。したがって、すべてのlehengaを購入する前にこれらのヒントを使用してください。 

    デザイナーキルトはどこでも販売されていません 

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    まず第一に、デザイナーlehengaはささやかな店にはありません。したがって、小さな店で買い物をしている場合は、偽のlehengaが表示されます。 

    そこのディスプレイを見てください 

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    お店に行ったらすぐそこのディスプレイを見てください。そこから多くのことを推測します。店舗のレベル、服のスタイル、最新のコレクションなど。 

    ブラウスとスカーフのチェック 

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    キルトを作る間、どんなスタイリストもそれを非常に密接にします。同様に、そのlehengaのブラウスとデュパッタも用意されています。 

    パッキングについて言う必要があります 

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    lehengaパッケージは、彼女がデザイナーかどうかを明らかにします。パッキングが良ければ、lehengaがデザイナーです。 

    lehengaで行われた作業を注意深く見てください 

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    偽のlehengaでの作業は厳密には追跡されなかったでしょう。デザイナーlehengaの作品を見ると、驚かれることでしょう

    वेडिंग सीजन के लिए बेस्ट है ये 6 हेयर एक्सेसरीज

    現代の花嫁は、アクセサリーが古臭く見えないのではないかと心配しています。伝統的なジュエリーも身に着けているなら、それはモダンなタッチを持つべきです。このため、今日の花嫁は明るい色あせた色あせた宝石を身につけ始めます。問題はここにあるだけではありません。すべての女の子にとって非常に小さなオプションであることが証明されているヘアアクセサリーにはガジュラしかありません。ヘアアクセサリーでトレンドを設定したい場合は、別の方法を試してみてください。あなたの髪をファッショナブルに、そしてリーグ外に見せるためのヘアアクセサリーの6つのスタイルを教えてください。 

    ミショ 

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    これはひまわりの形をした非常に新しいタイプのアクセサリーです。自分で塗ると、ガジュラ植えたような気分になります。 
     
    離れ家ジュエリー

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    このローズゴールドのイヤーカフは非常にスタイリッシュです。間違いなくあなたのレセプションでそのようなイヤリングを試してください。 

    バリヤン

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    ぬかネックレスでもブレスレットでもありません。これはパステルドレスにぴったり合うヘッドバンドです。あなたは黒いガウンでこのチームアップを着用しなければなりません。 

    ジュエルサーガ

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    このマンガティカは、ラージャスターン風の印象を与えています。あなたとあなたの友人はこれを着る必要があります。モダンなドレスと伝統的なドレスの両方でお試しいただけます。 

    ローマ・ナルシンガニ

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    付けた後、上から星形スパイラルヘアを形成または塗布します。あなたは間違いなくあなたの外観をくすんだ状態に保つためにこの外観を運ぶことができます。 

    Shaya by caratlane

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    今、最良のオプションは、顔にモダンな外観を与えることです。この作品からあなたの顔が浮かび上がります。 

    古い一時的な刺青lehenga、このスタイリッシュな馬術を試してください

    一時的な刺青の色は常に緑色と見なされます。しかし、時間の経過とともにすべてが変化しました。今、このイベントでは、花嫁は多くのベニアと一時的な刺青の機能を別の場所に置くことができます。さて、以前のことを言いましょう。花嫁はlehengaだけを着ていましたが、今はあなたの一時的な刺青であらゆる種類のドレスを試すことができます。一時的な刺青機能で着用できる服装についてお話ししましょう。 


    Patialaスーツ 

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    ニティモハンのように、あなたもパティヤーラスーツを着ているあなたの一時的な刺青で美しく見えることができます。あなたはこのスーツで花の宝石を身に着けるべきです。全体の見栄えを良くするために靴を履くこともできます。 


    ガウン 

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    あなたはあなたの一時的な刺青を持っています、あなたがベニアを着たい方法はあなたの選択です。この日はガウン付きの靴のパンプスを試してみてください。 


    ボトムス付きロングクルティ 

    パンジャブケサリ

    ロングカーティでさまざまなボトムスを履いていただけます。この花嫁のようにクルティを追加したり、花のジュエリーを身につけたりすることもできます。 

    パンジャブケサリ

    クルティ付きのパジャマを着ることもできます。ガジュラは一緒にとても美しく見えます。 

    パンジャブケサリ

    あなたが何か新しいことを試したいなら、クルティと一緒にshararaを着てください。 


    肩をすくめてクロップトップ 

    パンジャブケサリ

    シュラグと組むことができるクロップトップの広場を着用してください。 


    クールな表情

    パンジャブケサリ 

    一時的な刺青をロックしたい場合は、クロップトップとスタイルを組み合わせて、みんなに見せてください。 

     

    サリー 

    パンジャブケサリ

    サリーの時代は決して古くない、あなたはあなたの一時的な刺青機能でサリーを着ることもできます。 

    ジャールカンド州のコロナウイルス:ジャールカンド州のコロナ爆発、再び封鎖されます!

    Prabhat khabarデジタル 
    更新日
    ジャールカンド州のコロナウイルス:ジャールカンド州のコロナ爆発、再び封鎖することができます!
    ジャールカンド州のコロナウイルス:ジャールカンド州のコロナ爆発、再び封鎖することができます!ツイッター

    ジャールカンド州では、コロナの感染が急増していることを誰もが心配しています。これまでの24時間で、1日あたり316例のコロナ感染が記録されています。ランチだけで71の新しい症例が報告されています。この後、ジャールカンドで再び封鎖を実施できるかどうか、人々の間の議論の市場は熱くなっています。ハザリバーグ自治体が7月15日から7日間、コロナ感染を防ぐために完全な封鎖を実施したため、この人々の不安は一段と高まりました。基本的なサービスを除いて、すべてのショップと施設は閉鎖されています。ハザリバーグに隣接する国境はすべて封鎖されています。

    しかし、州政府はすでに封鎖に関する立場を明らかにしている。州政府は完全な封鎖の計画はないと述べた。Rameshwar Oraon財務大臣は、7月15日からの完全な封鎖の報告を却下し、当面の間、完全な封鎖はジャールカンドでは課されないだろうと述べた。必要に応じて、感染が急速に広がっている地域を激しく増やすことができます。首都ランチと西シンブムでは、感染のペースが非常に速くなっています。両方の地区でのアクティブなケースの数は300を超えました。

     
    ジャールカンドコロナウイルスの更新:州では1日に207件の新しい症例が発生し、件数は4783件に達し、4人が死亡しました

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    ジャールカンドコロナウイルスの更新:州では1日に207件の新しい症例が発生し、件数は4783件に達し、4人が死亡しました

    ロックダウンが実装されていない場合、マスクを着用せず、社会的距離を守らない場合のペナルティが増加する可能性があります。現在、封鎖などの計画はありません。感染しているコロナの数が急速に増加しているため、ジャールカンドでは厳格さが増しています。境界は密閉されているため、コロナ感染を制御できます。7月31日まで、ジャールカンド州には多くの割引が適用される封鎖が存在します。

    州ではコロナ事件が4.74%の割合で増加しているため、ジャールカンド州民の間での封鎖の議論も起こっています。以前はアクティブなケースの数は少なかったが、新しい感染ケースの増加後、4562がある場合にコロナに感染した総数は、アクティブなケースの数が2039に増加した。これは半分弱です。RanchiとWest Singhbhumだけで、コロナ感染のアクティブなケースは300を超えました。

    投稿者:Pawan Singh

    シュラヴァンで黄道十二宮が一致する人々のどのジョティリンガ崇拝を調べる

     
    • シヴァの12のジョティリンガはそれぞれ異なる意味を持っています。経典によると、人が死の悲しみから解放されるのを助けるのはこれらのジョティリンガです。 
    牡羊座-この干支で生まれた人々は、Somnath Jyotirlingaを崇拝する必要があります。 SomnathをPanchamritで崇拝することにより、良い結果が得られます。 パンチャムリットは、ガンガの水、牛乳、カード、蜂蜜、ギーを混ぜて作られます。 サムナスジョティリンガは、グジャラート州サウラシュトラのベラバル港近くにあります。 チャンドラ自身がこの寺院を建てたと考えられています。 この寺院では、サムナスはパンチャムリットと崇拝されています。 プラナスによると、マハデフがチャンドラを呪いから解放したとき、シヴァはチャンドラがサカルシヴァを崇拝したのと同じ方法でその寺院でシヴァを崇拝しました。 民間伝承によると、ここがクリシュナ卿が遺体を残した場所です。
    1/12牡羊座-この干支の人々は、サムナスジョティリンガを崇拝する必要があります。SomnathをPanchamritで崇拝することにより、良い結果が得られます。パンチャムリットは、ガンガの水、牛乳、カード、蜂蜜、ギーを混ぜて作られます。サムナスジョティリンガは、グジャラート州サウラシュトラのベラバル港近くにあります。チャンドラ自身がこの寺院を建てたと考えられています。この寺院では、サムナスはパンチャムリットと崇拝されています。プラナスによると、マハデフがチャンドラを呪いから解放したとき、シヴァはチャンドラがサカルシヴァを崇拝したのと同じ方法でその寺院でシヴァを崇拝しました。民間伝承によると、ここがクリシュナ卿が遺体を残した場所です。
    おうし座-この干支の人々は、マリカルジュンの名前を思い出すためにオムナマシヴァのマントラを唱え、生乳、豆腐、白い花でシヴァを崇拝する必要があります。 シヴァにミルクを塗ると、その効果が得られます。 銅の鍋に牛乳とティラックを入れて鍋の周りに置き、マントラ「Om Sri Kamadhenbe Namah」を唱えながら大根を鍋に結びます。 就任式の間、マントラ「Om sakal laukaik gururvai namru」を唱えます。 マリカルジュンがジョティルリンガでシヴァとシャクティを崇拝するとき、果物は神と悪魔の両方から得られます。 このシヴァのジョティルリンガはナラマライの丘にあります。
    2/12おうし座-この干支の人々は、マリカルジュンの名前を思い出し、生乳、豆腐、白い花でシヴァを崇拝することにより、オムナマシヴァのマントラを唱える必要があります。シヴァにミルクを塗ると、その効果が得られます。銅の鍋に牛乳とティラックを入れて鍋の周りに置き、マントラ「Om Sri Kamadhenbe Namah」を唱えながら大根を鍋に結びます。就任式の間、マントラ「Om sakal laukaik gururvai namru」を唱えます。マリカルジュンがジョティルリンガでシヴァとシャクティを崇拝するとき、果物は神と悪魔の両方から得られます。このシヴァのジョティルリンガはナラマライの丘にあります。
    ジェミニ-マントラ「Om Namo Bhagwate Rudraya」は、マハカレスワルを思い出してできるだけ多く唱えられるべきです。 UjjainのMahakaleshwar Jyotirlingaは、グリーンフルーツジュース、マグカップ、ベルパタなどで崇拝する必要があります。 マハカレシュワールも明日です。 彼を崇拝することで、人を早すぎる死の恐れから解放すると信じられています。 マハカレシュワールのシブリングで、蜂蜜と牛乳を混ぜて入浴します。 鈴とシャミの葉を提供します。 マハカレスワール寺院は南向きなので、重要な意味を持っています。
    3/12ジェミニ-マントラ「Om Namo Bhagwate Rudraya」は、マハカレスワルを思い出してできるだけ多く唱えられるべきです。UjjainのMahakaleshwar Jyotirlingaは、グリーンフルーツジュース、マグカップ、ベルパタなどで崇拝する必要があります。マハカレシュワールは時代の時代でもあります。彼を崇拝することで、人を早すぎる死の恐れから解放すると信じられています。マハカレシュワールのシブリングで、蜂蜜と牛乳を混ぜて入浴します。鈴とシャミの葉を提供します。マハカレスワール寺院は南向きなので、重要な意味を持っています。
    がん-この干支で生まれた人は、オンカレシュワールジョティリンガを崇拝する必要があります。 マディヤプラデーシュ州カンドワ地区のナルマダ川沿いのマンダータ島とシブプリ島にあるオンカレシュワールジョティルリンガは、ガンに関連しています。 この島はおよそオームの大きさです。 ここには2つの寺院があります。1つはOmkareshwarで、もう1つはAmareshwarです。 この干支の人々は、マハシヴァラトリの日にこの形のシヴァを崇拝します。 オンカレシュワーラを記念して、シヴァをパンチャムリットと一緒にお風呂に入れます。 次にベルパタを手渡します。 オンカレシュワーラは、ナルマダ川に自然に建設されたと考えられています。
    4/12 Cancer-この干支で生まれた人々は、Onkareshwar Jyotirlingaを崇拝するべきです。マディヤプラデーシュ州カンドワ地区のナルマダ川沿いのマンダータ島とシブプリ島にあるオンカレシュワールジョティルリンガは、ガンに関連しています。この島はおよそオームの大きさです。ここには2つの寺院があります。1つはOmkareshwarで、もう1つはAmareshwarです。この干支の人々は、マハシヴァラトリの日にこの形のシヴァを崇拝します。オンカレシュワーラを記念して、シヴァをパンチャムリットと一緒にお風呂に入れます。次にベルパタを手渡します。オンカレシュワーラは、ナルマダ川に自然に建設されたと考えられています。
    このしるしの下で生まれたレオはヴァイジャーナタ・ジョティリンガを崇拝するべきです。 子供がビジネス、家族、政治、または健康による問題に苦しんでいる場合、マハシヴァラトリの日に、シヴァはマントラ「Om Jatadharaya Namah」を牛乳、カード、ガンガ水、ミスリを水に混ぜて唱えることによって油を注ぐ必要があります。 ジャールカンド州のデブガーに位置するこのジョティリンガは、シヴァの12のジョティリンガの9番目です。 神話によると、ランカパティラヴァナはこのジョティルリンガをここに持ってきました。
    5/12レオ-この干支で生まれた人々はヴァイジャーナタジョティルリンガ崇拝する必要があります。子供がビジネス、家族、政治、または健康による問題に苦しんでいる場合、マハシヴァラトリの日に、シヴァはマントラ「Om Jatadharaya Namah」を牛乳、豆腐、ガンガ水、水に混ぜてマントラを唱え、油を注ぐ必要があります。ジャールカンド州のデブガーに位置するこのジョティリンガは、シヴァの12のジョティリンガの9番目です。神話によると、ランカパティラヴァナはこのジョティルリンガをここに持ってきました。
    おとめ座-ビマーシャンカーがジョティルリンガを崇拝する場合、おとめ座で生まれた人はシヴァ神の祝福を得ることができます。 マハラシュトラ州のビマ川のほとりに位置するこのジョティルリンガは、乙女座のジョティルリンガです。 Bhimashankarを満足させるには、ギーを牛乳と混ぜ、シブリングを入浴させる必要があります。 Bhimashankar JyotirlingaはMoteshwar Mahadevとしても知られています。 この12のうち6番目のジョティルリンガは、マハラシュトラ州プネーから110 kmのサヒャドリ丘陵にあります。 Sravanの月にこのJyotirlingaを訪れると、人のすべての悲しみがなくなると考えられています。 
    6/12おとめ座-ビマシャンカーがジョティルリンガを崇拝する場合、おとめ座で生まれた人々はシヴァ神の祝福を得ることができます。マハラシュトラ州のビマ川のほとりに位置するこのジョティルリンガは、乙女座のジョティルリンガです。Bhimashankarを満足させるには、ギーを牛乳と混ぜ、シブリングを入浴させる必要があります。Bhimashankar JyotirlingaはMoteshwar Mahadevとしても知られています。この12のうち6番目のジョティルリンガは、マハラシュトラ州プネーから110 kmのサヒャドリ丘陵にあります。Sravanの月にこのJyotirlingaを訪れると、人のすべての悲しみがなくなると考えられています。 
    綿-この干支の人々は、ラメシュワールジョティリンガを崇拝すれば、利益を得ることができます。 タミルナードゥ州にあるラマによって建てられたこの寺院は、トゥーララシと関連しています。 シータを求めて、ラマは海に架かる橋を作り、このジョティルリンガを設置しました。 マハシヴァラトリの日にこのジョティリンガを見た結果、夫婦生活において愛と調和が保たれています。 Rameshwar Jyotirlingaを満足させるために、Mahadevはミルクにロリポップを混ぜて入浴する必要があります。 RameshwarまたはRamlingeshwarは、ヒンドゥー教の4つのダムの1つです。 タミルナードゥ州のラマナタプラム地区にあります。
    7/12綿-この干支の人々は、ラメシュワールのジョティリンガを崇拝することで利益を得ることができます。タミルナードゥ州にあるラマによって建てられたこの寺院は、トゥーララシと関連しています。シータを求めて、ラマは海に架かる橋を作り、このジョティルリンガを設置しました。マハシヴァラトリの日にこのジョティリンガを見た結果、夫婦生活において愛と調和が保たれています。Rameshwar Jyotirlingaを満足させるために、Mahadevはミルクにロリポップを混ぜて入浴する必要があります。RameshwarまたはRamlingeshwarは、ヒンドゥー教の4つのダムの1つです。タミルナードゥ州のラマナタプラム地区にあります。
    蠍座-この黄道帯の人々は、ウッタラーカンド州のアルモラ地区にあるドワールカ、グジャラートのナゲシュワールジョティリンガ、またはジョゲティルリンガとも呼ばれるジャゲシュワールマハデフを崇拝する必要があります。 これら二つのジョティリンガスと蠍座の関係。 マハシヴァラトリの日にこのジョティリンガを訪れると、事故を避けることができます。 その日にジョティリンガに行けない場合は、シヴァをミルクとカイで崇拝する必要があります。 次に、マリーゴールドの花とベルの葉をシヴァに提供します。 このサインの下で生まれた人々は、マントラ「Hring Om Namah Shivay Hring」を唱えるべきです。 それは12のジョティリンガのうち10番目のジョティリンガです。 グジャラート州のドワルカプリから25 kmに位置し、この寺院の近くに集落は建設されていません。
    8/12蠍座-この干支で生まれた人々は、ウッタラーカンド州のアルモラ地区にあるドワールカ、グジャラートのナゲシュワールジョティリンガ、またはジャゲシュワールマハデフ(ジョティルリンガとも呼ばれる)を崇拝する必要があります。これら二つのジョティリンガスと蠍座の関係。マハシヴァラトリの日にこのジョティリンガを訪れると、事故を避けることができます。その日にジョティリンガに行けない場合は、シヴァをミルクとカイで崇拝する必要があります。次に、マリーゴールドの花とベルの葉をシヴァに提供します。このサインの下で生まれた人々は、マントラ「Hring Om Namah Shivay Hring」を唱えるべきです。それは12のジョティリンガのうち10番目のジョティリンガです。グジャラート州のドワルカプリから25 kmに位置し、この寺院の近くに集落は建設されていません。
    射手座-人々がバラナシのカシビシュワナートジョティルリンガを崇拝する場合、この星座の人々はマハデフの祝福を得ることができます。 この干支で生まれた人々は、Sravanの月またはMahashivaratriの日にガンガ水にサフランを混ぜてシヴァに油を注ぐ必要があります。 そのベルパタの後に、緑または赤の花嫁が提供されるべきです。 射手座のOm tatpurusaya bidmahe mahadevaya dhimahiのシヴァマントラ。 タンノ・ルドラ:プロチョダットは唱えられるべきです。 
    9/12射手座-人々がバラナシのカシビシュワナートジョティリンガを崇拝すると、この干支で生まれた人々はマハデフの祝福を得ることができます。この干支で生まれた人々は、Sravanの月またはMahashivaratriの日にガンガ水にサフランを混ぜてシヴァに油を注ぐ必要があります。そのベルパタの後に、緑または赤の花嫁が提供されるべきです。射手座のOm tatpurusaya bidmahe mahadevaya dhimahiのシヴァマントラ。タンノ・ルドラ:プロチョダットは唱えられるべきです。 
    山羊座-この干支で生まれた場合、トリンバケシュワールはジョティルリンガを崇拝することで青い喉の祝福を得ることができます。 山羊座に関連付けられたこのジョティルリンガは、マハラシュトラ州のナシク地区のトリンバックの町にあります。 SravanとMahashivaratriの日に、シヴァは糖蜜をガンジス川の水に混ぜて油をそそがれるべきです。 その後、青い花とドゥトゥーラが提供されます。 マントラ「Om Namah Shivay」のロザリオ5つがTrimbakeshwarを記念して唱えられるべきです。 このジョティルリンガの特徴は、ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘシュの顔のシンボルの外観を与えることです。 
    10/12山羊座-この干支で生まれた場合、トリンバケシュワルジョティルリンガを崇拝することでニラカンサの祝福を得ることができます。山羊座に関連付けられたこのジョティルリンガは、マハラシュトラ州のナシク地区のトリンバックの町にあります。SravanとMahashivaratriの日に、シヴァは糖蜜をガンジス川の水に混ぜて油をそそがれるべきです。その後、青い花とドゥトゥーラが提供されます。マントラ「Om Namah Shivay」のロザリオ5つがTrimbakeshwarを記念して唱えられるべきです。このジョティルリンガの特徴は、ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘシュの顔のシンボルの外観を与えることです。 
    アクエリアス-この黄道十二宮の人々は、ウッタラーカンド州のケダルナスジョティリンガを崇拝する必要があります。 Kedarnath ShivlingはPanchamritで入浴する必要があります。 その後、パドマとドゥトゥーラを提供する必要があります。 ケダールは、保護者であり駆逐艦であるシヴァ卿の別名です。 プラナによると、この寺院はパンダヴァスによって建てられました。 ピラミッドの形をしたシブリングがあります。
    11/12水瓶座-この看板の下で生まれた人は、ウッタラーカンド州のケダルナスジョティリンガを崇拝する必要があります。Kedarnath ShivlingはPanchamritで入浴する必要があります。その後、パドマとドゥトゥーラを提供する必要があります。ケダールは、保護者であり駆逐艦であるシヴァ卿の別名です。プラナによると、この寺院はパンダヴァスによって建てられました。ピラミッドの形をしたシブリングがあります。
    うお座-オーランガバードでグリシュネシュワルジョティリンガを崇拝するマハラシュトラ州は、うお座で生まれた人々に良い結果をもたらすことができます。 このサインの下で生まれた人々は、サフランをミルクに混ぜてシブリングを始めるべきです。 入浴後、シヴァはギー、ハチミツ、黄色のブライダルフラワー、ベルの葉を提供されるべきです。 Ghrishneshwar Jyotirlingaは、12番目のJyotirlingaとして有名です。 この神社はダウラタバード(デバギリ)から30 kmのベルルという村にあります。 うお座のシヴァマントラ-'Om tatpurusaya bidmahe mahadevaya dhimahi。 タンノルドラプラコダヤト」は唱えられるべきです。
    12/12うお座-マハラシュトラ州オーランガバードでグリシュネシュワルジョティルリンガを崇拝すると、うお座の人々は良い結果を得ることができます。このサインの下で生まれた人々は、サフランをミルクに混ぜてシブリングを始めるべきです。入浴後、シヴァはギー、ハチミツ、黄色のブライダルフラワー、ベルの葉を提供されるべきです。Ghrishneshwar Jyotirlingaは、12番目のJyotirlingaとして有名です。この神社はダウラタバード(デバギリ)から30 kmのベルルという村にあります。うお座のシヴァマントラ-'Om tatpurusaya bidmahe mahadevaya dhimahi。タンノルドラプラコダヤト」は唱えられるべきです。井上: 私、『不死身の特攻兵』を読ませていただいて、ちょっと他の人とは違った感じ方をしました。というのは9度の特攻出撃から生還した佐々木友次さんという人が並外れた精神力と飛行技術の持ち主であることに異論はないのですが、あの戦時の極限状況で、こんな奇跡的なことはどんなに超人的な人であっても個人の力だけでは無理だったのではないかなと思うのです。

    それを可能にしたのは、本来は爆弾を切り離せなくなっていた飛行機に手を加え、爆弾を切り離せるようにしてくれた整備兵や、不時着したときに襲うどころか、逆に現地の日本軍の基地まで送り届けてくれたフィリピンの人たち、あるいはマラリアに罹って治療していたときに出撃を促しに来た上官に反対してくれた軍医などの存在だと思うのです。

    佐々木さんという個人の強さだけではなく、それをいろんな形で支えた人たちが存在していたというところに、大きな可能性を感じます。

    何でもかんでも自己決定権で、自分一人でできると、自分で自分のことは責任を取る、というのは無理な話で、自分が何かを成し遂げることができるのは、他人の少しずつの善意の結果なのではないかなと思うのです。鴻上さんの本を読ませてもらって、それを強く感じました。

    鴻上: なるほど、確かに佐々木さんが所属していた万朶隊の岩本益臣隊長は、優秀なパイロットを特攻で散らせることに我慢できず、上官には内緒で整備工に頼み込んで、本来は切り離せない爆弾を切り離せるようにしてもらったわけですね。

    ところが岩本隊長が第一回の出撃の前に亡くなった後も、毎回ちゃんと爆弾は切り離せるようになっていた。それは本当に整備の人たちが同じ整備を続けてくれていたからなんですね。

    飛行機が爆破され、別の機体に替わっても、ちゃんと切り離せるようにしてくれていた。これは矢面には立てないんだけれど、「この作戦はおかしい」と思う人たちが周りで支えてくれていたということですよね。

    大衆からの批判とどう向き合うか

    鴻上: 近現代史を扱う本を書くものの宿命かもしれませんが、ある程度本が売れてくると、ほとんど読んでいない人からの批判がくるようになりませんか。

    井上: あります、あります。

    鴻上: まあSNSで批判してくる人のアカウントを見ると、フォロワーも数人だったりするので気にしないようにしていますが、自分が読みたい言説だけを読み、それに沿わない論者にはあたりかまわず嚙みついてくるという人がネットを舞台に増殖しているような気がします。

    井上: 研究者の中にはそういう人たちに関わりたくないから、ほとんど誰も読まないような学術論文で、先行研究にほんのちょっとだけ独自性があるようなものを書いて満足している人もいます。しかしそれは研究者としての社会的責任を何も果たしていないし、そんな「研究」は単なる趣味でしかないですよね、って言いたいのです。

    私が自著の出版のときに新書の形式にこだわるのも同じ理由です。新書ならなんと言っても1万部くらいは刷ってもらえるので、研究のフロントラインをできるだけ分かりやすく世の中に提示することができる。それが研究者の仕事だと思っているからです。

    鴻上: 大事なことですよね。アカデミズムが大衆から逃げたり大衆を馬鹿にしたりして一歩引いてしまったことが、リアリズムと実証主義に基づかない無知で無責任な言説が大手を振ってまかり通る現状を生んでしまった原因であることは間違いないと思うんです。

    僕はずっと演劇という、アカデミズムではない普通の人たちにものを提示する仕事をしてきたから、時には面と向かって批判されることもあるわけですが、アカデミズムにもある程度そういう覚悟は必要だと思う。一般の人がアクセスしやすい形で、自分の考えを打ち出していくのはアカデミズムのある種の責務だと思うんです。

    井上先生は今回それを見事にやってくださった。これからのお仕事も注目させてもらいます。(構成 阿部崇)

    特攻。今日では美化されて語られることの多い「十死零生」のこの作戦。一方で、はたしてその戦果がどの程度だったのか、が語られることは少ない。毎日新聞記者・栗原俊雄氏が、ある特攻隊員の証言と史料をもとに、歴史の闇に斬り込む。(前編はこちらから

    「特攻の記憶」

    目の前に、「桜花」を抱いた一式陸上攻撃機(一式陸攻)が飛んでいた。護衛のゼロ戦に乗っていた野中剛(1925年生まれ)は突然、「耳元でバケツを打ち鳴らされたような音を聞いた」。そして機体後部に「ガン」という衝撃を感じた。

    1945年3月21月。海軍鹿屋基地(鹿児島県)から特攻隊が飛び立った。一式陸攻18機を基幹とする「神雷部隊」である。護衛のゼロ戦は30機。敵は九州沖南方の米機動部隊(航空母艦=空母を基幹とした艦隊)であった。一式陸攻は爆弾、魚雷も搭載できる軍用機だが、この日は初めての兵器を胴体に抱いていた。
     
    その兵器こそ特攻のために開発された「桜花」である。重さ2トン。機体の前身に1・2トンの爆弾を積んでいる。ロケットエンジンで前進し、小さな翼でグライダーのように飛ぶ。車輪はない。つまり一度空中に放たれたら、着陸することはほぼ不可能であった。
     
    「普段は前三分、後ろ七部なんですが」。護衛30機のパイロットの一人だった野口は、70年近く前の体験を振り返って筆者にそう証言してくれた。

    ゼロ戦のような戦闘機に限らず、撃墜される場合は死角である後方から攻撃されることが多い。このため、搭乗員は前方よりも後方を強く意識するのだ。「しかしあの時は前の編隊(「桜花」を抱いた一式陸攻の部隊)を守る意識が強すぎて、後方がおろそかになりました」。

    第二次世界大戦末期、大日本帝国海軍は航空機が搭載した爆弾もろとも敵艦に突っ込む「神風特別攻撃隊」(特攻隊)を編成した。現在は「カミカゼ」と読まれがちだが、当時は「シンプウ」と呼ばれることが多かった。また「神風」は海軍側の呼称であり、海軍に続いて特攻隊を送り出した陸軍は、「神風」という言葉を組織としては使わなかった。

    呼称はともかく、海軍も陸軍も爆弾を搭載した飛行機もろとも敵艦に突っ込む、という点では同じだ。成功すれば搭乗員は必ず死ぬ。「九死に一生」ではなく、「十死零生」である。飛行機も必ず失う。

    爆撃機でいえば、通常の作戦ならば搭乗員は敵艦に爆弾をあてて帰還し、さらに出撃する。その繰り返しである。もちろん、その過程で戦死することは多々あるが、あくまでも前提は生還することである。
     
    特攻は、そうした戦争の原則から大きく逸脱するものだ。筆者がカッコつきで「作戦」と書くのはそのためである。
     
    その「作戦」は、前回みたように1944年10月、フィリピン戦線で始まった。海軍の「敷島隊」5機によって米空母1隻を撃沈、ほかの1隻にも損害を与えた。

    特攻を受けて轟沈する米艦船【PHOTO】gettyimages

    第二次世界大戦において、帝国海軍は戦艦12隻を擁していた。「大和」「武蔵」はよく知られている。帝国海軍の実力は、艦船数や総トン数などでみるかぎりアメリカとイギリスに継ぐ第3位であった。しかし戦艦部隊の実力に関する限り、それは世界第一位であったといっていい。
     
    敗戦時、12隻のうち何とか海に浮かんでいたのは「長門」だけ。ほかの11隻は撃沈されるか、航行不能だった。戦果と言えば、戦艦が米空母で沈めたと思われるのはたったの1隻(レイテ沖海戦における護衛空母「ガンビア・ベイ」)だった。「思われる」というのは、「ガンビア・ベイ」を撃沈したのが日本軍戦艦だったのか、あるいは巡洋艦だったのか判然としないからだ。

    ともあれ、世界に誇る12隻の戦艦群が沈めた敵空母が、最大でも1隻でしかなかったことは事実である。「敷島隊」の戦果から半年後、「世界最強」と謳われた戦艦「大和」は瀬戸内海から九州東南を経て沖縄に向かったが、米軍機の空襲が始まってからわずか2時間余で撃沈された。

    敵空母を撃沈するどころか、その姿をみることもなく、かすり傷一つ与えることはなかった。
     
    そうした現実からみると、たった5機の「敷島隊」による戦果は巨大であった。海軍内部には、特攻に対する抵抗もあった。前述の通り、作戦ではなく「作戦」だからであり、まさに「統率の外道」(特攻創設者とされてきた大西瀧治郎・海軍中将の特攻評)だからである。
     
    しかし「敷島隊」の大戦果によって、海軍は特攻を本格的に進めた。陸軍も、同じフィリピン戦線で特攻を始めた。「外道」が「本道」となり、「特別攻撃隊」が「普通の特別攻撃隊」になったことを、確認しておこう。

    当初は確かに戦果を挙げた。なぜなら、米軍を初めとする連合軍は、爆弾を積んだ飛行機が飛行機もろとも自分たちに突っ込んでくる行為が、継続的かつ組織的に行われることを予想していなかったからだ。このため日本軍の特攻への対処が遅れ、被害が拡大した。日本軍からみれば戦果が拡大した。
     
    特攻隊が「敷島隊」のような戦果を挙げ続けたら、第二次世界大戦の流れは変わっていたかもしれない。しかし、現実は違った。
     
    米軍は、特攻の意図を知って対処を進めた。特攻機の第一目標は航空母艦(空母)であった。レーダーを駆使し、空母群と特攻隊の進路の間に護衛機を多数、配備する。戦艦なども多数配置する。こうした結果、特攻隊は目標に体当たりするどころか、近づくことさえ困難になった。

    【PHOTO】gettyimages

    また、そうした護衛部隊をかいくぐってなんとか米空母群付近にたどり着いたとしても、そこにはさらなる護衛機群があって、艦船からは十重二十重の迎撃弾が吹き上がってくる。日本軍機は、一般的に少ない燃料で航続距離を伸ばすため軽量化を図り、その反面防御力を犠牲にした。

     

    大戦後半、米軍機が日本軍の機銃を浴びても分厚い装甲がそれをくいとめ、墜落を免れることがあった。一方、ゼロ戦を初めとする日本軍機は敵機の一撃が致命傷となり得た。
     
    さて特攻機は、出撃したものの機体の故障のため帰還することが少なくなかった。なぜか。

    以下は大戦末期に連合艦隊司令長官、つまり帝国海軍の現場の最高責任者だった豊田副の証言である(『最後の帝国海軍』)。米軍が沖縄に上陸した1945年4月以後の状況だ。
     
    「沖縄戦がだんだんと進行してゆくと、次は内地の本土決戦以外には考えようがないので、専ら本土決戦準備に、陸海軍とも狂奔し、すべてこの兵力の整備とか建直しをやつた」。ところが「今まで百機持つておつたのに、更に五十機来たとして、今までの可動五十機だつたのが、今度は三十機乃至二十機になるという始末」だった。

    豊田は航空部隊で、「新型飛行機」の完成品をみた。「それは新型戦闘機で、まるで子供が悪戯に作つた玩具のようなもので、一見リベットの打ち方もなつていない。実にひどいものだつた」。
     
    つまり生産機数が落ちているだけではなく、できあがった飛行機の質も著しく低下していたのだ。さらに言えば、精密機械である飛行機を維持するには、プロの整備兵が必要だ。しかし国を挙げての総力戦が長引くうち、パイロットのみならずその整備兵も不足していった。

    また南方の石油産出地域を占領していたものの、その石油を運ぶルートの制空権と制海権を米軍に抑えられているため、石油を十分に輸送することができなかった。このため、オクタン価の低い航空燃料で飛行機を飛ばすことになった。

    要するに、飛行機の生産数が減っていき、せっかく生産された飛行機は少なからずポンコツで、そのポンコツに粗悪な燃料を積み、その上十分な整備もなされないまま前線に送り出された航空機が多かった。それは特攻機としても動員されただろう。

    さらに言えば、1941年12月の対米戦開戦より前、日中戦争から使われていた老朽機も特攻に投入された。出撃したものの、引き返すケースが多いのは当然だった。

    1隻沈めるのに、81人の命

    ところで特攻といえば、一般的には「家族や国を守るため、自らの命を投げ出した若者たち」という印象が強いだろう。それゆえ特攻はそれが終わってから71年が過ぎた今も、多くの人たちの心を打つ。
     
    筆者はこれまで、たくさんの特攻隊員、しかも実際に出撃した特攻隊員を取材してきた。彼らの証言を聞き、あるいは戦死した人たちの遺書、親や妻、子どもたちに書き残したそれを読むと涙を禁じ得ない。
     
    「そうした尊い犠牲の上に、今日の日本の平和がある」という感想を、しばしば聞く。筆者はその感想にも同意する。同意するが、新たな疑問が生じてくるのだ。「なぜ、だれが未来有望な若者たちをポンコツ飛行機に乗せて特攻に送り出したのか。戦果が期待したほど上がらないと分かった時点で、どうして特攻をやめなかったのか」と。

    【PHOTO】gettyimages

    ともあれ、海軍による特攻「作戦」は当初、既存の航空機に爆弾を搭載していた。しかし軍が期待したほどの戦果は上がらなかった。前述のハードルを越えて敵艦に突っ込んでも、そもそも飛行機には浮力があるため、高高度から放たれた爆弾のような衝撃力はなかった。さらに爆弾が爆発する前に機体がくだけてしまい、肝心の爆弾が不発なこともあった。
     
    そうした中で開発されたのが、機体そのものが爆弾といっていい「桜花」である。搭乗員は必ず死ぬが、命中すれば敵の損害は大きい。しかしこれも敗戦まで、大きな戦果を挙げることはなかった。

    そもそも、ただでさえ動きが鈍く防御力の乏しい一式陸攻に2トンもの「桜花」を積んだら動きがさらに鈍くなり、敵戦闘機の餌食になるのは必定であった。実際、冒頭にみた、野口が護衛した「神雷部隊」の一式陸攻18機もすべて撃墜された(「桜花」を搭載していたのは16機)。 

    敵艦は一隻も沈んでいない。被弾した野口機は、何とか帰還したが、「作戦」自体は大失敗だった。
     
    敗戦まで、航空特攻の戦死者は海軍が2431人、陸軍が1417人で計3830人であった(人数には諸説がある)。一方で敵艦の撃沈、つまり沈めた戦果は以下の通りである(『戦史叢書』などによる)

    正規空母=0/護衛空母=3/戦艦0/巡洋艦=0/駆逐艦=撃沈13/その他(輸送船、上陸艇など)撃沈=31

    撃沈の合計は47隻である。1隻沈めるために81人もの兵士が死ななければならなかった、ということだ。しかも戦果のほとんどが、米軍にとって沈んでも大勢に影響のない小艦艇だった。

    この中で大きな軍艦といえば護衛空母だが、商船などを改造したもので、もともと軍艦ではないため防備が甘く、初めから空母として建造された正規空母より戦力としては相当劣る。特攻が主目的とした正規空母は一隻も沈まなかったという事実を、我々は知らなければならない。

     

    「撃沈はしなくても、米兵に恐怖を与えて戦闘不能に陥らせた」といった類いの指摘が、しばしばある。そういう戦意の低下は数値化しにくく、戦果として評価するのは難しい。それは特攻=「必ず死ぬ」という命令を受けたか、受けるかもしれないと思って日々を過ごしている大日本帝国陸海軍兵士の戦意がどれくらい下がったのかを数値化できないとの同じだ。

    我々が知るべきは、特攻の戦果が、軍上層部が予想し来したものよりはるかに低かった、ということだ。むろん、特攻で死んでいった若者たちに責任は一ミリもない。

    押し付けられた責任

    ところで、「特攻隊を始めたのは誰だ?」。そういう問いに対してはしばしば、大西瀧治郎海軍中将の名が挙がる。実際1944年10月、フィリピン戦線で最初の特攻隊を見送ったのは大西だ。しかし、前出の豊田は言う。

    一番右が大西瀧治郎【PHOTO】gettyimages

    「大西が特攻々撃を始めたので、この特攻々撃の創始者だということになっておる。それは大西の隊で始めたのだから、大西がそれをやらしたことには間違いないのだが、決して大西が一人で発案して、それを全部強制したのではない」
     
    特攻は、大西一人の考えで始まったものではなかった。たとえば軍令部第二部部長の黒島亀人である。同部は兵器を研究開発する部署であった。奇抜な言動から「仙人参謀」と呼ばれた黒島は、戦争中盤から特攻の必要性を海軍中央に訴えていた。

    黒島以外にも、海軍幹部たちが特攻を構想・準備していた証拠はある(拙著『特攻 戦争と日本人』)。しかし戦後、特攻を推進した者たちは、自分が果たしたであろう役割を語らなかった。
     
    大西は敗戦が決定的となった1945年8月、自殺した。若い特攻隊員を送り出した将軍のなかには「自分も後から続く」などと「約束」しながら、敗戦となるとそれを破って生き延びた者もいる。そして大西以外の特攻推進者たちは、「死人に口なし」とばかり、大西に責任を押しつけた。
     
    巨大組織である海軍には様々な部署があったが、メインストリームは砲術つまり大砲の専門家であり、あるいは雷撃すなわち魚雷の専門家であった。そうした中、大西の専門は創設間もない航空であった。自分が育てた航空部隊への思い入れはひときわ強く、部下思いでもあった。

    その大西がなぜ、航空特攻を推進したのだろうか。次回はその理由をみてみたい。

    (文中敬称略

    サイパン島の激戦

    日本軍とアメリカ軍は、サイパン島の中部にある「タッポーチョ山」などをめぐり激しい戦いを繰り広げ、時に日本軍がアメリカ軍指揮所を襲撃するなどの展開もありました。

    日本兵は爆弾を抱き、戦車へ突撃するなどの白兵戦も行います。しかし、全体としてアメリカ軍が日本軍を北へ追い詰め、ついに日本軍は最北端の「マッピ岬」周辺に追い詰められました。

    投降が固く禁じられていた日本軍は、玉砕(ぎょくさい)の道を選びました。

    ※玉砕については「崩壊する戦線(2)―玉砕する太平洋の島々(概要)」を参照。

     

    サイパン島要所図

    [parts:eNozsjJkhAMTs6Q0M1MzY/0U/dTcpNQU+9zMFFtDQ914rwyf5ETfQnOn4nCLQnOXzOQiI69Kn5xyJjMTAyYTCwMAJLkRlA==]青=マッピ岬(バンザイクリフ)
    茶=タッポーチョ山
    紫=アメリカ軍第二海兵師団上陸目標周辺
    オレンジ=アメリカ軍第四海兵師団上陸目標周辺

     

     日本軍についに「玉砕命令」が下されました。サイパンで日本軍将兵に配布された文書にはこのように書かれています。

    サイパン島守備兵に与える訓示

    サイパン島の皇軍将兵に告ぐ
     米軍進攻を企図してより茲(ここ)に二旬余、全在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属は克(よ)く協力一致、・・・中略・・・今や戦うに資材なく攻むるに砲類悉(ことごと)く破壊し、戦友相次いで斃(たお)る。・・・中略・・・今や止まるも死、進むも死、生死須(すべか)らくその時を得て帝国男児の真骨頂あり。今米軍に一撃を加え、太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」。勇躍全力を尽して従容(しょうよう)として悠久の大義に生きるを悦(よろこ)びとすべし。
     茲に将兵と共に聖寿(せいじゅ)の無窮(むきゅう)、皇国の弥栄(いやさか)を祈念すべく敵を索(もと)めて発進す。
     続け

    出典:「図説 太平洋戦争」より。現代表記にしてある。原文は旧仮名遣いで句読点はない。カッコ内・太字筆者追加。

    〇語句の説明
    旬…10日間/軍属…軍隊の行動を支える様々な仕事(補給、整備、工事等)に従事する人。軍人とは待遇が異なる/須らく…必然的に/虜囚…捕虜/従容…ゆったりと落ち着いている様/悠久…果てしなく長く続くこと/聖寿…天皇の年齢・寿命/無窮…無限・永遠/皇国…日本/弥栄…ますます栄えること

    サイパン島の守備隊を指揮していた日本軍司令官三名は、最後の突撃の前、マッピ岬に近い洞窟内で割腹自決(かっぷくじけつ=切腹すること)しました。

    真珠湾攻撃以来、連合艦隊の中心的な存在の一人であった南雲忠一中将(この時第六艦隊司令長官)、陸軍第四十三師団長斎藤義次中将、陸軍第三十一軍参謀長井桁敬治少将の三名です。

    南雲中将以下海軍守備隊幹部
    南雲中将以下海軍守備隊幹部 出典:Kodansha

     

    7月7日午前三時、マッピ岬から約5キロ南方に集結した約3000人の突撃参加者は、指揮官を先頭にして突進を開始しました。

    この3000人には、在郷軍人会、警防団員、青年団員など、軍人でない人も多数含まれていました。

    「天皇陛下万歳!」を叫びながら、約10キロ先の街を目指して突撃しました。アメリカ軍は前日に日本軍捕虜からこの日の突撃のことを聞き出しており、全軍が警戒態勢に入っていました。

    突撃部隊はアメリカ軍の第一線の部隊を突破し、前線部隊の8割を殺傷するなどかなりの損害を与えましたが、態勢を立て直したアメリカ軍の反撃に次々に倒れていきました。

    サイパンの市街戦
    市街戦

     

    最北端のマッピ岬まで追い詰められた日本の民間人は、次々に崖の下に降りて入水(水に入ること)したり、崖から身を投げ自決していきました。

    アメリカ軍は拡声器で投降(降参して出てくること)を日本語で呼びかけましたが、多くの日本人はそのまま自決していきました。

    民間日本人の自決者は8000人から1万2千人ほどと推定されています。多くの自決者が出たマッピ岬の先端は現在「バンザイ・クリフ」(万歳の崖)と呼ばれ、さらにその手前には「スーサイド・クリフ」(自殺の崖)と呼ばれる崖があります。

    サイパンで死体で折り重なった洞窟から赤ん坊を救出するアメリカ軍兵士
    死体で折り重なった洞窟から赤ん坊を救出するアメリカ軍兵士

     

     

    テニアン島・グアム島の玉砕

    マリアナ諸島にはサイパン以外にも、テニアンとグアムという、重要な島がありました。アメリカ軍はサイパン占領から10日後の7月21日にグアム島に、さらにその3日後にはテニアン島へ上陸しました。

     

    サイパン・テニアン・グアムの位置関係

    [parts:eNozsjJkhAMTs6Q0M1MzY/0U/dTcpNQU+9zMFFvD+MjAjKAA49xUk8p805BCX08vzxBXvxxXw9xkJjMTAyYTCwMAKpIRfg==]青=サイパン島
    緑=テニアン島
    紫=グアム島

     

    テニアン島には日本兵が陸海軍合わせて約8000人、日本民間人約1万3000人、それに朝鮮人約2700名がいました。

    アメリカ軍は伊豆大島をわずかに大きくした程度のこの島に、サイパン島に送り込んだ兵力に匹敵する5万4000人を投入。

    上陸10日日後の8月1日、アメリカ軍はテニアン島占領を宣言しました。

    テニアン島で破壊された日本軍95式軽戦車
    破壊された日本軍軽戦車

     

    さらに大きな島であるグアム島は現地住民も多く、アメリカ軍にとってテニアンより大きな脅威になると考えられていました。

    しかし徹底的な艦砲射撃と空爆、そして約5万5千人の上陸部隊の猛攻により、日本軍守備隊2万810人のうち、8割近くが初日の7月21日に戦死してしまいました。

    一方のアメリカ軍も多大な損害を出しましたが、日本軍の敗退は避けがたく、上陸から3日目には、翌日真夜中に最後の突撃(玉砕)をする旨、命令が出ました。

    総攻撃は死者約3000人を出したものの失敗し、生き残った兵は北へ北へと逃げ、数を減らしていきました。

    戦跡ピティ・ガンズに残る50口径三年式14糎単装砲
    今もグアム島に残る日本軍の大砲

     

    マリアナ諸島陥落の影響

    マリアナ諸島は「絶対国防圏」の中に位置する、日本の防衛にとって極めて重要な場所でした。

    日本軍は陸海軍共に、マリアナ諸島防衛に全力を注ぎましたが、短期間のうちに島々はアメリカ軍の手に落ち、さらに日本の機動部隊が壊滅的な打撃を受けるという結果なりました。

    その後マリアナの島々にはアメリカ陸軍の最新鋭爆撃機「B-29」が大量に配備され、日本本土へ直接爆撃を繰り返しました。

    マリアナ諸島が陥落してから約3か月後の1944(昭和19)年秋より、本土空襲は始まりました。翌年3月10日には東京へ300機以上のB-29が押し寄せ、一晩で下町を焼き尽くし約10万人の犠牲者を出しました。

    その後も各地で大規模な空襲を繰り返し、日本の主な都市はほぼすべてB-29の焼夷弾(しょういだん)によって焼き尽くされました。

    そして、広島市、長崎市へは、このマリアナ諸島から飛び立ったB-29によって原爆が投下されました。

     💡 本土空襲の概要はこちら ➡ 【概要】本土空襲
     💡 B-29とは ➡ 日本を襲う銀色の怪鳥-B-29とはどのような飛行機か 

     

    大量のB-29が並ぶサイパンの飛行場
    大量のB-29が並ぶサイパンの飛行場

     

    当時政権を握っていた東条英機内閣は、サイパン陥落の責任を取り、7月18日総辞職しました。日本の設定した絶対国防圏はいとも簡単に破られ、いよいよ日本は窮地に立たされることとなります。戦って亡くなられた(戦わずして亡くなられた)英霊の多くは、無能な上層部の戦犯とも

    言える無謀な作戦によって尊い命を国に捧げた方が多いという事も忘れてはいけません。
    ここでは戦後アメリカで「陸の三馬鹿」と言われた有名な3名の陸軍幹部、寺内寿一大将 ・
    牟田口廉也中将 ・ 富永恭次中将 を紹介しておきます。
    特にイギリスでは、「日本兵を大量に見殺しにしてくれたので勲章を与える」 とのブラッ
    クジョークまで出る程軽蔑されています。

    ( 木村兵太郎大将 ・ 牟田口廉也中将 ・ 富永恭次中将 の3名を挙げる人もいます。)
    ※木村兵太郎大将は戦後東京裁判において死刑が言い渡され昭和23年12月23日絞首刑。
    ですのでここではあえて紹介しない事にします。
    [映像記録史 太平洋戦争前編][映像記録史 太平洋戦争後編]

    ▼寺内寿一大将
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    寺内 寿一(てらうち ひさいち) 1879年(明治12年)8月8日~1946年(昭和21年)6月12日
    日本の陸軍軍人・政治家。最終階級は元帥陸軍大将。勲等は勲一等。爵位は伯爵。山口県出身。
    第18代内閣総理大臣などを歴任した元帥陸軍大将寺内正毅の長男で、皇族以外では唯一陸海軍を通
    して親子2代で元帥府に列せられた人物。南方軍総司令官。
    南方軍総司令官在任時、牟田口廉也中将の無謀なインパール作戦を黙認したのもこの人物。

    1944年10月、フィリピン決戦を前にマニラを去り、赤坂の芸妓を軍属として呼び寄せて、「東洋の
    パリ」と言われたベトナムのサイゴン(現在のホーチミン)に司令部を置き、旧フランス総督の大邸
    宅豪邸で優雅な生活をしながら命令を出し続けた。ルソン島で総力戦を構える山下奉文大将に対し、
    レイテ島への兵力分散を命じて約37万人という太平洋戦争最大の犠牲者を出した。(87%が餓死)
    (レイテ島への戦力分散は、海軍の行った「台湾沖航空戦」の幻の大戦果結果の真相を陸軍に伝えな
    かった海軍の責任も重大であるが・・・。)フィリピンでの戦いの後も何もおとがめ無し・・・・。
    山下奉文大将は部下達と共に空腹でフラフラしながらフィリピンの山中の複郭陣地でアメリカ軍と戦
    ったのである。レイテ島の戦い 

    寺内は愛人(お妾さん)の芸妓を、陸軍軍属として輸送機で自分の総司令部の官舎に連れ込んでいた。
    もちろん、日本軍の上級幹部には、現地の敵性国人(たとえばオランダ)の女性を“現地妻”ないしは
    愛人として囲った人間はいただろう。だが日本本土から赤坂の美貌の芸妓を軍用機に搭乗させて呼び
    よせた。という人間は、寺内以外にまずいなかったのではあるまいか?
    終戦の年の9月、脳溢血で倒れなかったら、おそらく戦犯として絞首刑は間違い無かっただろう。
    1946年(昭和21年)6月12日マレーシア(レンガム)で拘留中に病死。享年66歳

    ※寺内寿一大将と東條英機(陸軍大臣)首相との間柄は極めて不良だった。
    東条英機の父東條英教は日露戦争で旅団長として指揮に問題がありと烙印をおされた。
    また当時、長州閥が陸軍を支配していたため出世を妨げられ、日露戦争後、中将に昇進の上、予備役に
    された。その後息子、東条英機は、長州閥を敵視し、陸軍大学校に長州出身者を入学させないなど長州
    閥の解体に尽力した。

    寺内寿一の父寺内正毅は長州出身で、東条英機の父東条英教が陸軍少将で参謀本部第四部長の時、参謀
    次長だった寺内正毅により旅団長に左遷された。また、東条英教を予備役にしたとも言われている。

    このようなことから、寺内寿一大将は、東條英機首相にとっては父英教の仇敵の子供でもあり、長州出
    身であるから、当然敵視していたといわれる。
    太平洋戦争開戦は、その格好の機会を与えた。東條首相は陸相も兼ねているので、寺内大将を南方軍総
    司令官として、遠く南冥の地に追いやり、寺内大将はシンガポール、サイゴンから一歩も動けない立場
    に置かれたのも事実である。しかしそういったお家の事情は最前線で戦う兵士には関係無い、上司の為
    に戦ったのでは無い。戦死していった最前線の兵士は日本の為、家族を守る為に戦って倒れたのである。


    ▼牟田口廉也中将
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    牟田口 廉也(むたぐち れんや)1888年(明治21年)10月7日~1966年(昭和41年)8月2日
    日本の陸軍軍人。最終階級は中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時のマレー作戦や
    同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。責任なき戦場 ビルマ・インパール

    インパール作戦の失敗までは、人間性はともかくとして、軍人・将軍としては「有能」であったとい
    えます。また、彼はもともと皇道派寄りな人物としてマークされ、そのために中国に飛ばされた経緯
    をもっていたので、権謀術数を用いてのし上がったと言うわけでもないようです。しかし・・・・、
    有名なインパール作戦自体は大失敗、正論を吐く部下の師団長を次々と首にして強引に継続しました
    が、結果は惨憺たるもの。2万人以上の兵士が餓死・病死し、日本軍退却の道筋は「白骨街道」と呼ば
    れました。作戦が大失敗なのは明らかなのにメンツにこだわり、上司のビルマ方面軍最高司令官の「河
    辺中将との会談でこう言ったそうです。
    「作戦中止を言いたかったが言い出せなかった。私の顔色からなんとか読み取って欲しかった」
    と、漫画にもならない事を回想で言っています。牟田口は前線部隊が帰還するのを待たないでさっさと
    日本へ逃げ帰り、牟田口は終戦後、昭和20年12月戦犯容疑で逮捕され昭和21年9月シンガポールに
    移送された。昭和23年3月釈放され帰国。東京都調布市で余生を過ごした。
    しばらくの間はインパール作戦に対する反省の弁を述べ、1961年(昭和36年)頃まで、敗戦の責任を
    強く感じて公式の席を遠慮し続けながら生活していた。昭和36年2月26日、インパール作戦で自らが更
    迭した佐藤 幸徳(さとう こうとく)元師団長の葬儀に参列し、佐藤家の遺族の前で頭を下げ、
    「自分の至らなさのため、すまないことをした」と詫びた。
    しかし、1962年(昭和37年)にバーカー元イギリス軍中佐からインパール作戦成功の可能性に言及した
    書簡を受け取ったことを契機に、自己弁護活動を行うようになり、死去までの約4年間はインパール作戦
    失敗の責任を問われると戦時中と同じ様に、
    「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」などと頑なに自説を主張していた。
    1966年(昭和41年)8月2日死去。享年77歳
    自身の無謀な作戦(インパール作戦)に倒れた兵士達への謝罪の言葉は死ぬまで無く、8月4日に行われ
    た自らの葬儀においても、遺言により、自説を記したパンフレットを参列者に対して配布させた。


    ▼富永恭次中将
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    冨永 恭次(とみなが きょうじ)1892年(明治25年)1月2日~1960年(昭和35年)1月14日
    明治25(1892)年1月2日、医師・富永吉太郎の二男として長崎県で誕生。日本の陸軍軍人
    最終階級は陸軍中将。

    富永は東條英機の腰巾着と言われ、徹底して東條にへつらう事で昇進しました。
    マニラに着任した冨永は、フィリピン決戦において陸軍初の航空特別攻撃隊「万朶隊」の出撃命令を
    出しました。続いて「富嶽隊」が出撃。以後62回、400機近い特攻機を続々と出撃させました。
    生存者の証言によれば、特攻前になると一升瓶をぶら下げて現れては訓示を垂れるしか能のない司令
    官だったそうです。陸軍特攻隊の司令官として出撃前の大げさなパフォーマンスに生き甲斐を見出し、
    特攻隊員に、「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」
    と言いながら、エンジン不調などで帰還すると、「卑怯者!命が惜しいのか!」と罵倒しました。
    400機近くの特攻機を出撃させ、搭乗員を戦死させながらも戦後のうのうと生き恥を晒した人物です。

    冨永は視察を名目に上級司令部にも無断で突然フィリピンから台湾に単独で後退。
    一説には、マニラから引き上げてきた司令部要員の大半をエチャーゲの南5キロにあるサンチャゴに
    足止めし、その間に司令官・参謀などの高級将校たちは残り少ない戦闘機を駆り出して護衛を命じ、
    フィリピンのエチャーゲ南飛行場から台湾の台北へと続々と逃亡した。
    積み荷はウィスキーと芸者達であったという。
    (冨永の敵前逃亡の様子については異論も存在する。脱出の際に使用した陸軍飛行機は2人乗りであ
    り、芸者を同乗させて逃亡したという話は後年の創作の可能性もある。しかし部下を置き去りにして
    自分だけが逃げた事実は変わらない。)
    約1万の第4航軍の残存将兵は地上部隊に編成替えされ脆弱な歩兵部隊となってその大半が戦死した。
    富永の台湾への移動は一応口実をつけてはいたものの、直属上官である山下大将にも無断で行われる
    など明らかに軍規違反であり、軍規に則れば銃殺刑の敵前逃亡であった。
    事後承諾を求めに行った参謀に対し山下 奉文陸軍大将は、
    「部下を置き去りにして逃げるような奴に何ができるか!」と面罵したという。
    富永の行状は逃亡先の台湾でも知れ渡っており、第10方面軍に申告を行った際、同軍司令官の安藤利
    吉大将(兼台湾総督)から「申告は受け付けられない」と拒否されている。
    また昼間から軍の乗用車に芸者を乗せて走っており、一兵卒でさえ富永に敬礼しなかったという。
    本来であれば軍法会議が行われるべきところ暫く何の処分も下されなかったが、流石に陸軍中央でも問
    題になり、2月23日待命、5月5日予備役編入の処置がとられた。
    しかし「死ぬのが怖くて逃げてきた人間を予備役にして戦争から解放するのはおかしいのではないか?」
    という声があり7月に召集し、第139師団の師団長として満州の敦化に赴かせた。
    この部隊は関東軍の主力が南方に転出した後の穴埋め用根こそぎ動員部隊の一つである。
    8月9日のソ連参戦、終戦後、富永はシベリアのハバロフスク収容所に抑留された。ソ連の諜報員で戦後
    ソ連当局に逮捕されて禁固刑に処されたレオポルド・トレッペルは、ブティルスク監獄において冨永と
    同室だったと証言している。1955年(昭和30年)4月18日、引揚船「興安丸」で舞鶴港に帰国した。
    昭和35年1月14日 東京都世田谷区の自宅で心臓衰弱のため病死。享年68歳

    特攻隊員に、「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」
    と言った本人は戦後15年間、68歳まで生き恥を晒した様です・・・・。

    富永の敵前逃亡はフィリピンに残った兵士たちの怒りと嘲笑を買い、当時、現地で軍歌「若鷲の歌」の
    替え歌が流行りました。以下その替え歌の歌詞です。

     命惜しさに 富永が
     台湾に逃げた その後にゃ
     今日も飛ぶ飛ぶ ロッキード
     でっかい爆弾に 身が縮む

    人はいくら優秀でも、世渡りが旨いだけだと、後々とんでもないしっぺ返しを喰らいます。
    富永のようなとんでもない人間の出世を許し、前線の指揮官に任命した東条や陸軍中央もその責めを問
    われるべきであると考える。

    ※富永恭次中将の息子さん富永靖(やすし)少尉は、第58振武隊 特別攻撃隊として昭和20年5月25日、
     宮崎県の都城東飛行場(都北町)より沖縄へ出撃し、特攻戦死。享年22歳
     朝4時50分出撃の際、当時そこに滞在していた参謀に「これを家族に」と言い、財布を渡したとの事です。
     父親の事には何も触れず、立派に死んでいったそうです。そのあまりに堂々とした態度に、後でその参謀が
     下士官に「あれは誰か?」と尋ねると、「富永閣下の息子さんです」という答えが返ってきたと言います。
     実父の挙動によって生じた家の汚名を晴らそうという気持ちだったのかもしれません。

     陸軍特別操縦見習士官(特操)試験不合格の結果に終わりながら、当時陸軍次官だった実父・恭次中将の
     権力で合格させてもらったという話も残っていますが結果的に、最後は特攻出撃となります。

    (宮崎県の陸軍都城飛行場からは昭和20年4月6日から7月1日にかけ振武隊10隊、79人が出撃しています、
    都城を発進した特攻機は、全機四式戦闘機「疾風」で編成の為、「都城疾風特攻振武隊」と呼称された。)
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    ▲都城飛行場から出撃していった陸軍四式戦闘機「疾風」 特別攻撃隊第58振武隊所属機

    ▼昭和20年5月25日出撃時の写真。富永靖少尉も含め沖縄方面へ突入した第58振武隊機「疾風」
    陸軍特攻隊は後方で編成し、機に応じて前線へ投入するシステムだったので編成後多少の時間的余裕があり、
    士気高揚のためスペシャルマーキングが許された。尾翼に描かれたマークは釜ゆで髑髏(どくろ)で、本隊
    (第58振武隊)の別名を髑髏隊と言われた。
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    ▲富永靖少尉もこの中の何処かに居るはずです、この日04:50に10機が出撃していきました。
    父親の恭次中将は敵前逃亡の最悪な幹部でしたが、息子さんの最後は立派だったと思います。
    富永靖(やすし)少尉(長崎県出身/慶応大学)享年22歳

    ※特攻隊員に「後で必ず自分も行く」と言ってのうのうと生きた幹部に菅原道大中将も挙げられます。
    「決しておまえたちだけを死なせない。最後の一機で必ず私はおまえたちの後を追う」と語りながら
    1983年12月29日死去。本当に最悪な幹部です。自分が死ぬ勇気もないのによく隊員に「死んでこい」
    と言えたものです。呆れるのを通り超えて憎悪が沸いてきます。 
       
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    .

    特攻作戦を実行するとき、大西瀧治郎中将が、腹心の参謀長・小田原俊彦大佐に語った「特攻の真意」が、前出の元特攻隊員・角田和男さんを通じて残っている。大西中将は昭和9年、角田さんが予科練に入隊したときの教頭、小田原大佐は昭和16年、角田氏に計器飛行を一から教えた飛行長で、いずれも浅からぬ縁のある上官だった。

    小田原大佐はその後、戦死したが、特攻出撃を控えた角田さんに、

    「教え子が、妻子をも捨てて特攻をかけてくれようというのに、黙って見ていることはできない」

    と、大西中将から「他言無用」と言われていたというその真意を話してくれたのだ。それは、要約すれば、特攻は「敵に本土上陸を許せば、未来永劫日本は滅びる。特攻は、フィリピンを最後の戦場にし、天皇陛下に戦争終結のご聖断を仰ぎ、講和を結ぶための最後の手段である」というものだった。

    しかもこのことは、海軍砲術学校教頭で、昭和天皇の弟宮として大きな影響力を持つ海軍大佐・高松宮宣仁親王、米内光政海軍大臣の内諾を得ていたという。つまりこれは、表に出さざる「海軍の総意」だったとみて差し支えない。

    角田さんは戦後、戦没者の慰霊行脚を続けながら、慰霊祭で再会した門司親徳さんとともに、大西中将の真意の検証を続け、ついに最初の特攻隊編成に立ち会った第一航空艦隊麾下の第二十六航空戦隊参謀・吉岡忠一元中佐と、大西中将夫人・淑惠さんから、間違いないとの証言を得た。

    特攻隊員たちの死を「無駄死に」であったとする論評もあるが、それは戦争の大きな流れを無視した近視眼的な見方によるものだ。

    「フィリピンを最後の戦場に」という大西の(つまり海軍の)思いは叶わなかったが、和平を促す「ポツダム宣言」が連合国側から出されたこと、日本が、それを多数決でなく「天皇の聖断」という形で受諾したことは、日本本土を敵の上陸から救い、「和平派」と「抗戦派」との間で起こりかねなかった内乱も防ぎ、多くの国民に復興と平和をもたらした。若者たちが、命を捨てて戦ったからこそ、瀬戸際で講和のチャンスが訪れ、日本は滅亡の淵から甦ることができた。

    ――ただし、それは、あの無謀な戦争を防ぐことができたなら、払う必要のなかった大きすぎる犠牲であったことは確かである。

    戦没者に「無名戦士」などいない。一人一人に名前があり人生があり、家族があり、もしかしたら恋人もいたかもしれない。そんな一人一人がもし命永らえていたら、どれほどのことを成し遂げたかを思えばなおのこと、戦争の惨禍は想像を絶する。

    日本を、あの無謀な戦争に導いた為政者や陸海軍上層部、それを煽り続けたマスメディアの責任、そして戦争に一時は熱狂して後押しした国民の姿は、「政府が」とか「世間が」という漠然とした議論ではなく、「どこの誰が、どうした」というところまで、これからも掘り下げていかねばならないだろう。

    過ちを繰り返さないために、反省することは大切だ。しかしその反省は、あくまで「事実」に基づいたものではならない。現代の高みから感情的に特攻隊員を無駄死に呼ばわりしたり、逆に美化したりするところからは、教訓など生まれてこない。

    「われわれは英雄でも、かわいそうな犠牲者でもない。ただ自分の生きた時代を懸命に生きただけ。どうか特攻隊員を憐憫の目で見ないでほしい」

    ――数年前に亡くなった、学徒出身のある元特攻隊員が遺した言葉である。

    2017年11月に同時刊行した講談社現代新書、井上寿一『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く』と鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』。

    多くの人に知られていない文書に光をあてた前著は7刷、後著は10刷と版を重ねています。10万部を突破した『不死身の特攻兵』では、「必ず死んでこい!」と命令されながら、9回生還した特攻兵に迫り、合理性を欠いた日本軍について考察しました。

    敗戦へと突き進んでしまったのは何故だったのか。今回は、著者お二人が、太平洋戦争当時の日本のあり方や、歴史を語り継ぐ意義について対談しました。

    日本人自らの手で戦争を検証する

    鴻上: 井上先生が今回の著作のテーマに選んだ「戦争調査会」は、終戦間もない頃、幣原喜重郎首相の強い意向によって、日本が敗戦に至った理由を調査するために設置された機関なんですね。

    井上: ええ、東京裁判が連合国による戦争責任追及の場であったとするならば、戦争調査会は日本人自らの手で、開戦から敗戦に至る経緯を調査・研究する場でした。ところが、GHQにより1年弱で廃止されてしまい、プロジェクトは未完のまま終わってしまいました。

    鴻上: 井上先生は長らく眠っていた当時の資料に光を当て、内容を詳細に分析して『戦争調査会』にまとめられた。ここでは、なぜ日本があの戦争に向かっていったのかが実証的に著されていて面白いのですが、その反面、読んでいくと腹が立ってくるんですね。というのも、戦争を回避するチャンスは幾度となくあったのに結局軍部は勝てる見込みのない戦争に突っ込んでいった。なぜこんな愚かな決断ばかりしたのかと……。

    井上: 社会の構造的な変動によって、戦争が避けがたくなっていきました。戦争への道には実は分岐点がいくつもあって、そこで違う決断をしていれば回避できる可能性はあった。一つひとつの決断の積み重ねとして戦争になっていくのです。

    一つの判断は、わずかな結果の差異しか生みませんが、それがいくつも重なることで最終的な結果が大きく変わってしまったのですね。

    鴻上: 単純に「東条英機が悪かった」というように、分かりやすい個人に責任を帰すということではないということですね。

    井上: ええ。例えば東条一人に責任があるというなら話は簡単ですが、その背景には東条を支持した国民の存在もありました。なにしろ東条自身は、必ずしも開戦に積極的ではなかったのですから。

    戦争が避けられない状況になっても、陸軍出身の東条は責任を海軍に押し付けようとしていました。「陸軍はやりたくてやっているわけじゃない。海軍はこういうときのために軍拡していたんだろう? 開戦したなら頑張れよ」という流れに持っていった。

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    海軍も、合理的に判断すれば戦争をしたら負けるということは分かっている。しかし10年くらい軍拡を続けているのに、いざというときに「戦えません」とは言えない。彼らは自分たちの組織を守るために「じゃあ、やります」と言わざるを得なかったのですね。

    鴻上: 陸軍と海軍のこの救いようのないセクショナリズムって何なんですかね。

    井上: 本当に。一方の東条は、開戦を決断せず、ぐずぐずしているときには「なんで開戦しないんだ」と世論から叩かれていたのですが、いざ開戦してみたら、国民から激励の電話や電報がジャンジャン入ってくる。そうしたら彼も気持ちよくなりますよね。戦況が有利なところで講和に持ち込むのが常道だったけれど、その判断もできなくなっていったのです。

    歴史を再現する熱意

    鴻上: 本の中で井上先生が「主観的でない歴史は存在しない」と書かれていて興味深かったんですが、世の中には「客観的な歴史が存在する」と考える人もいますよね。

    井上: 歴史って教科書に書いてあることを暗記すればいいというのではないですよね。いま生きている自分が直面している問題を考えたい、解決したいというとき、過去に遡って何かしらつながりを求めたくなる。そこに歴史を学ぶ意味があると思うのです。

    もちろん過去に遡れば、そこに事実というものは無数にありますが、それをすべて再現することは不可能だし、する必要もないと思うのです。それよりも、いま生きている自分が「過去のどういうところから学びたいのか」という意識をもって過去に遡っていくことが大切だと思いますね。

    鴻上: でもどこに軸足を置くかによって歴史の描き方、解釈は変わってきますよね? 軸足を置くポイントはどう選んでいらっしゃるんですか?

    井上: 鴻上さんは、『不死身の特攻兵』で描いた、特攻に9回出撃して9回生還した佐々木友次さんに感情移入ができたと思うのですけど、私も誰かしらには感情移入しないと、なかなかその人物を中心にして歴史を再現しようという気にはなりません。

    鴻上: なるほど。

    井上: 『戦争調査会』を書くにあたって、広く知られた存在ではありませんが、東京帝大教授の渡辺銕蔵や陸軍の岡田菊三郎という魅力的な人物を再発見しました。大学教授であり財界人であり政治家でもあった渡辺は、戦前から軍部や右翼を批判し、戦時中は戦局批判で投獄されている

    彼は戦後、戦争調査会の調査に対して、「日本とアメリカとは戦争をする理由なんて全然なかったんだ」と言っています。日本が中国に進出したこと自体は日米開戦の原因にならない。満州事変を拡大させない方針を固めて、例えば小満州に独立政権を作り、形式的に主権は中国にあるという妥協点を作り出せば、中国ともギリギリで折り合えた。「だから最後まで戦争回避の可能性はあったんだ」と渡辺は言っています。

    現代の外交史研究ではそれが定説になっていますが、渡辺がそれを敗戦直後から言っているという先見性は驚嘆に値します。

    一方の岡田は陸軍の戦備課長でありながら、日本軍の仏印進駐に反対していた。忘れられているこの人たちを現在に蘇らせたい。当時、こんなことを考え、発言していた人がいたんだよ、と今の人たちに伝えたい。そういう気持ちが根底にあります。

    鴻上: 佐々木友次さんにしても、渡辺銕蔵・岡田菊三郎にしても、現実を自分の都合のいいように捻じ曲げて解釈するのではなく、現実を客観的、合理的に把握できる人たちですよね。やっぱりそういうものの見方ができる人に魅力を感じるわけですよね。

    私の本には、美濃部正さんという海軍少佐が登場します。1945年(昭和20年)2月下旬、作戦会議の席上で「全軍特攻化」の方針の下、「赤トンボ」と呼ばれた練習機も特攻に駆り出す方針が発表されると、席次が最も下だった美濃部少佐は猛然と反対するわけですね。敵機のグラマンの最大時速が600キロ、それに対する布張り複葉機の赤トンボは200キロ。とても太刀打ちできない。特攻兵の命と練習機を無駄にするようなものだと。

    とたんに参謀から「必死尽忠の士が空をおおって進撃するとき、何者がこれをさえぎるか!」と一喝され、美濃部少佐はすぐ反論しました。「私は箱根の上空で(零戦)一機で待っています。ここにおられる方のうち、50人が赤トンボに乗って来て下さい。私が一人で全部たたき落として見せましょう」と。これでみな黙ってしまったそうです。

    観念や精神論がまかり通った軍部の中にも、「ダメなものはダメなんだ」と、リアルな、実証的なものの見方を貫いた人も少数派ながらいたんですよね。

    井上: 鴻上さんは美濃部少佐の発言を「勇気ある発言」としてそこに「日本人の可能性を感じる」と書かれていますよね。私も同じように、渡辺銕蔵や岡田菊三郎の存在に日本人の可能性を感じました。

    日本軍の腰が抜けるほどの愚かさ

    鴻上: もう一つ、日本軍の愚かさを象徴するエピソードが先生の『戦争調査会』で紹介されていますが、レーダー開発に関わる特許を、日本はなぜか期限切れにしてしまったと。

    井上: レーダー研究は日本が英米に先行している部分が多かったのです。ところが日本は、八木秀次が持っていたレーダー技術の特許を期限切れにしてしまった。八木秀次とは、戦時中技術院総裁で、八木アンテナの発明で知られる研究者です。

    お陰で米英は八木の技術を最大限生かして研究開発のアクセルを踏み込んで、日本よりも先に実戦配備したのですね。これで戦局に大きな影響が出ました。

    機首に八木・宇田アンテナを装備しレーダーを搭載した、日本海軍の夜間戦闘機、月光11型(Photo by Wikimedia Commons)

    鴻上: なぜ日本は八木さんの特許を守れなかったんですか?

    井上: 本には詳しく書きませんでしたが、実は海軍の担当者による八木氏への嫌がらせなのです。「レーダー開発は海軍がやる。お前の特許は必要ないんだ」というわけです。もっと言うなら、「海軍が開発をしているのに、お前に特許を独り占めされたくない。お前の許しを得ないとレーダーが開発できないんじゃ困るんだ」ということなのです。

    同時に陸軍も開発に乗り出しているのですけど、互いに情報交換もしないで、それぞれがやっている。こんな合理性を欠くことをしているうちに、英米に先を越されてしまったのです。

    鴻上: そうか。日本軍がイギリス領だったシンガポールを占領し、レーダーに関する書類を押収してみると「YAGI」という文字が並んでいる。「このYAGIってなんだ?」という話になって、捕虜に聞いてみたら「そりゃあ、日本人技術者の八木さんのことでしょう」と言われて日本人がびっくりしたという有名な逸話が残っていますけど、その裏には軍部の、そういった腰が抜けるほどの愚かさがあったわけですね。

    井上: そうなのです。

    東京裁判と戦争調査会

    鴻上: そもそも井上先生は、なぜ戦争調査会が残した文書に興味を持ったんですか。

    井上: 東京裁判を巡っては、いまも賛否両論があります。「文明の裁き」として肯定的に受けとる意見と、「勝者の裁き」であるとして否定的に受けとる意見です。

    だけど私は、日本人自らが戦争の原因を追究してこなかったことが最大の問題だと思うのです。戦争調査会は、不十分ながら、それが試みられた組織でした。その存在は以前から知られてはいましたが、バラバラに存在していた資料が2015~16年に15巻の書物にまとめられたのです。そこで、この際、系統的に読んでみようと思ったのが始まりでした。

    ところが、これは予想以上に難しい作業でした。当初は、「どのページを見ても初めて知るような事実がザクザク書いてあるのだろうな」と期待していたのですが、全然違いました。長野県の一地方における戦時中の中小企業の運営状況や統制状況を調べていたりする。「なんでこんなこと調べているのかな」みたいなものもたくさんあったのですね。

    それをじっくり読んでいると、東京裁判のような犯人探しをしているのではなく、戦時経済の状況を含めて、なぜ日本が戦争に向かっていったのかを構造的に解き明かそうという試みがなされているのだなと気づきました。だから地方の中小企業の実態まで調べる必要があったのだろうなと思います。

    鴻上: 私も『戦争調査会』を読み砕くのに時間がかかりました。戦争が起こる構造というのはそれだけ複雑なことなんだと思うんですけど、この複雑な構造の本がこれだけ売れるというのは、この国も捨てたもんじゃないなと思いましたよ。

    井上: 私もそんなに売れないと思っていましたので、そこはうれしい誤算です。

    鴻上: ねえ(笑)。

    沖縄戦-空の特攻作戦

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    マリアナ沖海戦、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦の相次ぐ大敗北で、日本海軍は航空兵力のほとんどを失いました。レイテ沖海戦では空母部隊が消滅しています。

     

    また、南方の資源輸送路が遮断(しゃだん)されつつあり、航空機や艦船を動かす燃料や、それら兵器を生産する原料も満足に得ることが出来なくなりました。

    そのような折り、硫黄島を1945(昭和20)年3月下旬に陥落させたアメリカ軍は、沖縄への侵攻を始めます。

     

    特攻しかない-日本航空戦力最後の一撃

    日本軍は1944年10月に起きたフィリピン・レイテ沖海戦で、初めて爆弾を積んだ航空機が敵艦に体当たりする「特別攻撃」(特攻)を行いました。

    フィリピンでの戦いでは、特攻攻撃は多くのアメリカ軍の艦船に損傷を与え、小型空母(護衛空母)を撃沈するなど、被害の割には大きな戦果を生み出すことができました。

    そのため、当時完全に手詰まりだった日本軍は特攻攻撃に大きな期待を寄せることになります。沖縄へアメリカ軍の大軍が侵攻してきた際、もはや正攻法では日本に勝てる見込みはなく、特攻攻撃が頼みの綱となっていました。 

    💡  レイテ沖海戦の詳細はこちら  ➡ 戦艦武蔵沈没す―レイテ沖海戦(1944.10.23-25)

     

    「菊水作戦」と「航空総攻撃」

    アメリカ軍が沖縄方面での上陸作戦を開始した1945年3月下旬より、日本軍は主に九州の基地から航空機による反撃を行います。

    3月18日~21日の4日間で、のべ1,000機を超えるアメリカ軍機と、600機を超える日本軍機が戦闘を繰り広げ、日本側はアメリカ軍空母5隻に損傷を与えるなどしました。

    しかし日本軍はこの戦いで約120機を失い、そのうち半数の60機が特攻機でした。

    その約10日後の4月6日、日本海軍は「菊水(きくすい)作戦を、陸軍は「航空総攻撃」を開始します。

    両作戦とも主に九州の複数の航空基地から飛び立った航空機による特攻攻撃で、6月22日の作戦終了までに海軍、陸軍それぞれ11回にわたり、合わせて約1,800機が特攻に出撃。約2,600名が戦死しました。

    この作戦でアメリカ軍の駆逐艦、給油艦、揚陸艦など、合計で数十隻を撃沈し、空母や戦艦などの主力艦にも少なくない損傷を与えました。

    CV-17_BunkerHill-kamikaze 5月11日特攻機によって破壊されたアメリカ軍空母「バンカーヒル」
    5月11日特攻機によって破壊されたアメリカ軍空母「バンカーヒル」

     

    日本軍の最後の航空戦力を振り絞った沖縄戦での空の特攻は、アメリカ軍に物理的、心理的な被害を与えました。

    しかし、巡洋艦、戦艦、空母は一隻も撃沈できませんでした。このことからも分かるように、与えた被害はアメリカ軍の戦力からいえばごくわずかであり、戦局に影響を与えるようなものではありませんでした。

    本作戦後半は、まともな戦闘機や攻撃機を投入できなくなり、速度が遅い練習機も投入することになります。

    特攻機のほとんど(9割以上)は敵艦に突入する以前に撃ち落とされ、運よく体当たりが成功しても、1機で艦船を撃沈できることはほとんどありませんでした。

    ※菊水…14世紀に活躍した武将楠木正成(くすのきまさしげ)の家紋「菊水紋」に由来。後醍醐天皇に仕え、鎌倉幕府を倒した楠木正成は最期に死を覚悟の戦(湊川(みなとがわ)の戦)に挑んだ忠臣とされ、正成を称える挿話は戦前は学校の教科書にも掲載されていた。

    2000px-Japanese_crest_Kikusui.svg 菊水紋
    菊水紋

    飛行場を使用不能にしようとした「義烈空挺隊」

    4月1日のアメリカ軍の沖縄本島上陸早々、北(きた)・中(なか)の両飛行場はアメリカ軍によって奪取されます。そしてアメリカ軍はさっそくこの飛行場に航空機を集め、日本本土攻撃の足掛かりを築きました。

    両飛行場をアメリカ軍によって使えないようにするため、日本軍は九州から爆撃機を飛ばし、飛行場へ強行着陸したのち、機関銃や手りゅう弾で武装した搭乗員によって、空港の敵機や滑走路を破壊するという計画を立てます(義烈空挺隊(ぎれつくうていたい))。

    5月24日、九州の空港から12機の爆撃機が飛び立ち、1機が北飛行場への着陸に成功。8人の搭乗員は敵機を破壊し、飛行場を襲撃します。アメリカ兵は2人が死亡、18人が負傷しました。

    搭乗員は全員戦死しました。この作戦は最初から体当たりを目的とする特攻攻撃ではありませんが、生還を期さないという意味では特攻の一形態と言えます。

    北飛行場に強行着陸した日本軍爆撃機
    北飛行場に強行着陸した日本軍爆撃機

     

    ロケット特攻機「桜花」

    日本軍は1944年以降、特攻専用兵器を相次いで投入しました。そのひとつが「桜花」(おうか)です。

    桜花は一人乗りの飛行機(グライダー)で、推進力は当時の最新技術であったロケットでした。海軍の大型攻撃機「一式陸上攻撃機」(一式陸攻)の下に吊り下げられて目標のそばまで運ばれ、切り離されてからはロケットで飛び、そのまま目標に体当たりします。

    一式陸上攻撃機
    富士山付近を飛行する日本海軍の「一式陸上攻撃機」

    零戦や各種攻撃機に爆弾を搭載し、そのまま体当たりを行う攻撃では、運べる弾薬の重量が限られる(500㎏程度まで)うえに、突入の際の速度があまり早くならないために、破壊力が思ったよりも大きくないのが日本軍の悩みでした。

    そこで、より大きな爆弾を搭載し、高速度で目標に体当たりできる特攻兵器として開発されたのが桜花です。

    桜花の断面図
    桜花の断面図

     

    桜花は1.2トンの爆薬を積むことができ、最高速度は時速約650kmでした。他の攻撃機の倍以上の爆薬を積み、零戦の100㎞以上速い速度で突入することで、大きな戦果を上げることが期待されました。

    しかし、桜花を目標近くまで運ぶ一式陸攻は、軽量化のために装甲が薄く、敵機の攻撃ですぐに引火してしまうことから、「一式ライター」などと日本兵からも皮肉を込めて呼ばれる機体でした。

    そのためほとんどの機体がアメリカ軍の艦船に近づく前に撃ち落とされ、6月22日の作戦終了までに、55機が出撃、撃沈したアメリカ軍艦船は駆逐艦一隻にとどまりました。

    特攻攻撃を拒み続けた芙蓉部隊

    特攻は、建前としてはパイロットが自発的に志願するというものでしたが、日本軍に残された唯一の効果的な攻撃手段として、次第にパイロットたちは特攻を拒むことはできなくなっていきました

    そのような中、特攻作戦への参加を拒み、あくまで通常攻撃を通した珍しい部隊がありました。

    難易度の高い夜間飛行の技術に長けた、夜間偵察部隊の隊長であった美濃部正(みのべただし)大尉(後に少佐に昇進)は、特攻攻撃を打診する上層部に反対し、夜間爆撃を行う専門部隊の創設を主張します。

    美濃部大尉は独自に装備や戦術に工夫を凝らした部隊を作り上げ、富士山の別名にちなんで「芙蓉(ふよう)隊」と名付けました。

    彗星艦爆
    芙蓉部隊の主力艦上爆撃機「彗星」

     

    芙蓉部隊は技術の高いパイロットを多く抱え、アメリカ軍が占領した後の北・中飛行場を爆撃して使用を妨害したり、特攻攻撃の護衛に活躍しました。

    しかし、爆撃機と攻撃機合わせて50機程度の部隊であったため、アメリカ軍の攻撃力を大きく損なうことはできませんでした。

    300px-OkinawaNightAA 飛行場空襲を妨げるアメリカ軍の対空砲火
    沖縄の飛行場への夜間爆撃を妨害するアメリカ軍の対空砲火

    命運を賭けた大バクチに負けた日本軍

    日本軍の航空戦力の総力を挙げた菊水作戦、航空総攻撃は多大な犠牲を払ったものの、アメリカ軍に大きなダメージを与えることはできませんでした。

    数千人の搭乗員の命と数千機の航空機によって仕掛けたこの「大バクチ」とも言える総攻撃に失敗した日本軍の航空戦力はいよいよ底を尽き、まともに戦える戦闘機・攻撃機、そして熟練したパイロットは極めて限られていくことになります。1944(昭和19)年7月にマリアナ諸島が陥落し、絶対国防圏が破られた日本は、疲弊した戦力を回復し、日本本土の防備を固めるために、時間を稼がねばなりませんでした。

    そのため、援軍の見込みのない太平洋の島々では、守備隊が強力な陣地を築き、長期にわたって徹底抗戦する戦術に変化していきました。

     

     

    ペリリュー島・アンガウル島の戦い

    フィリピン攻略の前哨戦としてのパラオ諸島攻撃

    アメリカ軍はフィリピン攻撃に先立ち、パラオ諸島の「ペリリュー島」「アンガウル島」という二つの島を攻撃しました。

    マッカーサー率いるアメリカ「南西太平洋軍」はニューギニア島を日本攻略の主な拠点としていました。

    そこからフィリピンへ向かう際、地理的に途中にあるパラオ諸島の島々を攻め落としておくことで、フィリピン攻略のための飛行場や補給基地を確保できるというメリットがありました。

    ペリリュー島・アンガウル島と周辺の位置関係

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    緑=アンガウル島
    オレンジ=レイテ島(フィリピン・アメリカ軍上陸地点)
    紫=ニューギニア島(アメリカ軍反攻拠点)

    ※ペリリュー島がアンガウル島に隠れて見えない場合は地図左下の「+」をクリックすると拡大できます。また、右上の「拡大地図を表示」をクリックするとGoogle Mapのウィンドウで大きく見ることができます。

    戦術の変更

    ペリリュー島の日本軍は、サイパン玉砕までとは戦術を変えました。

    それまでは敵が防御態勢を取りづらい水際(上陸寸前または上陸直後)で上陸部隊を攻撃し、その後味方の被害が大きくなったら玉砕を行うという流れが多かったのですが、この方法では大軍で攻め寄せてくるアメリカ軍に対しては、それほど敵に打撃を与えられない上に、すぐに島が敵の手に渡ってしまうことが分かりました。

    戦力が著しく落ちていた日本軍は、少しでも時間を稼いで戦力を回復し、日本本土の守備を固める必要がありました。

    そこで、各島の守備においても時間を稼ぐため、堅固な陣地を張り巡らせ、十分に敵を引き付けてから一気に火力を集中させて叩き、敵の損害をより大きくしたうえで、敵の上陸後も陣地をなるべく離れず、粘り強く戦い続けるという戦術を取ることにしました。

    そのため、ペリリュー島の地下に多くの陣地を掘って地下にこもって戦えるようにし、さらに大砲や機関銃を網の目のように多数配置し、上陸してきた敵兵がどこにいても攻撃できるようにしました。

    日本軍が斜面を利用して構築したトーチカ
    日本軍が斜面を利用して構築した防御陣地。横長の穴から砲撃・射撃を行う。大砲に撃たれても岩山とコンクリートに覆われており、被害は少ない。

     

    上陸開始

    1944(昭和19)年9月15日、アメリカ軍はペリリュー島に、そして二日後にアンガウル島に上陸しました。

    アンガウル島では、約1,200人の守備隊が2万人を超えるアメリカ軍と戦い、およそ1か月後、負傷し捕虜となった60人を除いて玉砕しました。

    アンガウル島地図。青矢印=アメリカ軍進攻路、赤斜線=日本軍陣地

     

    ペリリュー島では、守備隊約1万人に対しアメリカ軍は延べ4万人で挑みました。

    すぐに島を落とせるとアメリカ軍指揮官は楽観していましたが、洞窟陣地にこもり、火力を集中する日本軍に甚大な被害を被りました。

    激戦は約2か月続き、最終的にアメリカ軍は死者1,684人、負傷者7,160人、日本軍は戦死10,022人、捕虜となり生還した兵は446人でした。

    ペリリュー島で負傷した戦友に水を飲ませる米海兵隊員
    ペリリュー島で負傷した戦友に水を飲ませる米海兵隊員

     

    戦略的意味を失っても戦い続けなければならなかったアメリカ兵

    ペリリュー島へアメリカ軍が上陸してから約1か月後、アメリカ軍はフィリピンへの上陸を行いました。

    フィリピン上陸を空から支援するという、ペリリュー島の攻撃の意味はこの時点で既に失われていましたが、その時点で多大な犠牲を払っていただけに戦闘を止めるわけにはいかず、アメリカ軍はペリリュー島の日本軍が玉砕するまで戦い続けました。

    島の日本軍としては、アメリカ海兵隊と陸軍部隊の一部を長く釘付けにすることができました。

    崩壊する戦線(3)―白骨街道「インパール作戦」(概要)

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    1943(昭和18)年2月にガダルカナル島を失って以降、太平洋方面の戦いは一気に日本軍に分の悪い状況になっていきました。

    そして、西側の最前線であるビルマ(現在のミャンマー)でも、連合軍の反撃が始まりつつありました。

    本項では、ここでも補給の軽視によって日本軍が大打撃を受け、太平洋戦争の中でも最も無謀と言われた「インパール作戦」を概観します。

     

    イギリス・インド軍による特殊作戦

    1943(昭和18)年2月、約3000名のイギリス・インド連合軍(英印軍)が中部ビルマに突如現れ、1か月半にわたり日本軍へ攻撃を仕掛けました。

    ビルマとインド国境はアラカン山脈という、最高峰は富士山とほぼ同じ高さの山が占める、極めて険しい山脈に隔たれており、大軍が乗り越えられないと考えられていました。

    それだけに、この英印軍の出現は日本軍にとって脅威的でした。この部隊はイギリス軍のウィンゲート少将に率いられた「チンディット」という部隊で、補給は全て飛行機から前線へ物資をパラシュートで落とすという方法でした。

    ウィンゲート少将
    ウィンゲート少将

     

    インパール作戦

    チンディットの戦法をビルマ全土で展開されれば、ビルマ防衛は成り立たなくなってしまいます。

    そこで、インド側で最もビルマに近いイギリス軍の拠点である都市「インパール」の攻略を主目的とした作戦(インパール作戦)を、現地の第十五軍は推進することになりました。

    第十五軍司令官牟田口廉也(むたぐちれんや)中将の指揮したこの作戦は、主に補給の面から批判が続出しました。

    ビルマの日本軍には、チンディットの作戦を可能にした英印軍のような航空戦力もなければ、トラックも満足にありませんでした。必要とされる物資の量に対し、第十五軍の輸送力は10分の1程度しかありませんでした。

    しかも、自動車で足りない輸送力は馬などの動物と、人力に頼ることになります。それで大軍の武器・弾薬、食糧を運び、険しいジャングルの山を越えねばなりません。

     

    インパール作戦関係図

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    オレンジ=コヒマ
    茶色=チンドウィン河
    紫=ラングーン(ビルマの首都=現在のヤンゴン)
    緑=ミイトキーナ(北部の重要地点=現在のミッチーナ)

    この作戦は当初、第十五軍内部のみならず、上級組織の全てから反対されました。

    補給が続かないことに加え、太平洋のいたるところで玉砕の始まったこの時期、陸軍は大きな戦力をビルマ方面につぎ込むわけにはいかず、新たな大規模作戦には踏み切れませんでした。

    インパール作戦当時の作戦関係組織図(概要)

    インパール作戦当時の作戦関係組織図(概要)

     

    インパール作戦実施へ

    しかし、陸軍大臣も兼ねていた東条英機首相は、インドの独立運動を刺激し、イギリスの屈服を図るという方針を強く持っていました。

    また、太平洋戦線での敗退をインド方面で挽回したいという思惑もありました。

    牟田口司令官は、開戦当初破竹の勢いでイギリス軍を攻め落とした記憶から、「イギリスは弱く、攻めれば相手は逃げる」と強硬に主張し、補給の心配を理由としたインパール作戦への批判は次第に抑え込まれていきました。

    足りない補給は、インパールを占領すれば自動車も食糧も手に入るだろうという楽観的な予測もあり、ついに1943年9月、大本営はインパール作戦準備命令を出しました。

    牟田口廉也中将
    第十五軍司令官 牟田口廉也中将

     

    インド国民軍のインパール作戦参加

    この作戦には、「チャンドラ・ボース」率いる「インド国民軍」も約6000人参加することになりました。

    インド国民軍は、イギリス・インド連合軍のうちのインド人を離反させる目的で「インド解放」を旗印として、日本軍が組織し、ボースにその指揮をゆだねたものです。

    インド国民軍を参加させることで、インパール作戦は西洋からのアジア解放の一環であるという大義名分を持つことができるという思惑が首脳部にはあったと言われています。

    進撃開始

    作戦準備命令は出たものの、補給の問題が解決できず、実施は翌1944(昭和19)年3月までずれ込みました。

    また、その頃にはビルマ北部ではアメリカ軍に支援された中国軍が、中部ではイギリス軍空挺(くうてい)部隊が日本軍占領地に攻め込んできており、ビルマそのものが激しい戦場になっていました。

    それにも関わらず牟田口中将は作戦を決行。3月8日にチンドウィン河を渡り、進撃を開始しました。兵力は後方支援も含め、約9万人に及ぶ大作戦でした。

    インパール攻略に必要とされた期間は3週間。兵の各自が2、3週間分の米を背負い、足りない分は各師団数千頭の牛を引き連れていきました。

    進撃の道中は想像よりもはるかに険しいもので、食糧のために連れていった牛は、チンドウィン河を渡る際に半分が溺れ死に、残りの多くも崖から転落死ししたり、餌不足から病死や餓死しました。

    インパールと、その北部の目標地点コヒマに到達する以前に、日本軍は全ての牛を手放していました。

    イギリス軍の術中にはまった日本軍

    そのような状況の中でも、日本軍は進撃を続け、1か月経たないうちにインパールを包囲し、その北のコヒマを占領しました。

    しかし、これはインパール作戦の全貌を既につかんでいたイギリス軍による戦術で、日本軍をインドに引き込み、補給線の伸び切ったところを一斉に叩くという罠(わな)でした。

    コヒマやインパール周辺で日本軍は英印軍と激しく戦闘を行ったものの、二年前に日本軍がイギリス軍をビルマから追い出した時とはイギリス軍は装備を一新させており、最新の兵器を大量に動員して各地で日本軍を破っていきました。

    日本軍はインパールへの敵の補給線を遮断したつもりでしたが、航空機による物資輸送が盛んにおこなわれ、補給線の遮断はほとんど意味がありませんでした。

    逆に、補給の途絶えた日本軍は、第十五軍司令部に盛んに補給を要請しますが、前線にはほとんど物資は届きませんでした。

    補給をめぐり、前線の各師団と軍司令部の間の緊張は高まっていきました。

    コヒマ占領を任務とした第三十一師団の佐藤幸徳(こうとく)師団長は、前進を命じる牟田口中将の命令に反し、食糧のある場所まで引き返すと明言し、独自に退却を始めました(佐藤師団長抗命事件)。

    第十五師団、第三十三師団の師団長も軍司令部との間の確執が強くなり、前線の三師団全ての師団長が解任されるという、異常事態に陥りました。

    インパール-コヒマ間の路上を進撃する英印軍(ネパール山岳民族による「グルカ兵」)。アメリカ軍のM3中戦車を伴っている。
    インパール-コヒマ間の路上を進撃する英印軍(ネパール山岳民族による「グルカ兵」)。アメリカ軍のM3中戦車を伴っている。

     

    退却

    6月に入ると、ビルマ各地で連合軍の反撃がさらに強くなりました。北ビルマの重要地点であるミイトキーナ(現ミッチーナ)を陥落させ、日本軍が以前遮断した「援蒋(えんしょう)ルート」の再建に取り組んでいました。

    6月6日、牟田口司令官は、ビルマ方面軍の司令官川辺正三(かわべまさかず)中将と会談しました。この時既に作戦の失敗を悟っていた牟田口中将は、作戦中止を言い出したかったものの、体面にこだわり、自らは言い出すことができず、結局作戦は続行されることになりました

    その間にもインパール周辺の日本軍部隊の弱体化はいっそう進んでおり、赤痢(せきり)やマラリア、脚気(かっけ)といった病気が多発し、兵の3分の1は負傷や病気で動けませんでした。

    それから約1か月後の7月8日、ようやく撤退命令が出されました。その時にはほとんどの将兵には食糧はなく、敵の攻撃から逃げながら時には村落などで食糧を奪い、ジャングルでは草を食べながら撤退しました。

    日本軍の退却路には、倒れた将兵の白骨が連なり、「白骨街道」と呼ばれるようになりました。この作戦の日本側戦死者は2万4000~2万5000人と言われています。

    佐藤師団長抗命事件のその後

    牟田口司令官の命令に反し、独自に退却を行った第三十一師団の佐藤師団長は、作戦終了後、精神錯乱(さくらん)として軍法会議には欠けられず、後方に左遷させられました。

    上官の命令に背くことは法律(陸軍刑法)違反であり、最悪の場合死刑になる可能性のある大変重い罪です。

    また、師団長という重職にある者が命令に背いたことは、日本陸軍始まって以来の大事件でした。

    それにもかかわらず軍法会議にかけられなかった理由として、軍法会議で佐藤師団長がありのままを証言すれば、師団より上級の組織の責任が追及される可能性があること、とりわけ師団長を形式上任命する天皇の責任にまで話が及ぶ可能性があるため、軍法会議を避けたのではないか、という憶測がなされています。

    佐藤幸徳中将
    第三十一師団 師団長 佐藤幸徳中将

     

    インパール作戦の失敗によりビルマ方面の兵力は大きく落ち込み、この方面の日本軍の戦闘はより一層厳しさを増しました。

    ビルマ全体では日本軍は約16万人が戦死したと言われ、終戦に向かっていくこととなります。

    命の大切さ訴えた特攻隊長 豊前市出身の旧陸軍・岩本益臣大尉

    西日本新聞 北九州版

     戦争中、戦闘機で体当たり攻撃をする特攻に反対しながら、旧日本陸軍最初の特攻隊「万朶隊(ばんだたい)」の隊長になり、特攻直前に戦死した岩本益臣(ますみ)大尉は豊前市大河内の出身だ。市内の戦争の企画展などで取り上げられているものの、郷土史家などは「戦時中に軍の命令に背いてまでも命の大切さなどを訴えた人物。もっと多くの人に知ってほしい」と呼び掛ける。

     岩本大尉はどういう人物だったのか。豊前市史などによると、1917年10月に生まれ、旧制築上中学を卒業した。陸軍航空士官学校などを経て、満州白城子陸軍飛行学校で航法を学んだ後、25歳で茨城県の鉾田陸軍飛行学校の教官に就任。操縦のエキスパートだった。

     体当たり攻撃は人材と航空機の取り返しのつかない損失と考え、超低空で目標に接近し、爆弾を1度海面に落とし、跳ね上がらせて命中させる跳飛(ちょうひ)爆撃を研究、推進した。しかし、44年10月には、操縦技術の高さから万朶隊の隊長に任命された。出撃前の同年11月、フィリピンで移動中に米軍機に追撃され、27歳で戦死。大尉から少佐へと昇進した。

     万朶隊の隊員の証言によると、岩本大尉は「体当たり機は、操縦者を無駄に殺すだけでなく、(敵艦を)撃沈できる公算は少ない。出撃しても、爆弾を命中させて帰ってこい」と隊員に指示。上層部の許可がないまま、爆弾を投下できないようになっていた飛行機を投下できるように改装した。そのおかげで、この隊員は何度も出撃したが、生還できたという。

     市文化財保護審議会の前会長、尾座本雅光さん(73)は「岩本大尉は軍人だけに死を恐れていたのではなく、命を大切にしたいとの思いと軍事的な成果を計算した上での判断だった」と指摘する。

     市は2013年、岩本大尉の関係者から遺品24点の寄贈を受けた。過去3回、市立埋蔵文化財センター(同市八屋)で公開。今年も9月29日まで、「まいぶん夏のトピック展『伝えていくもの~戦争の記憶~』」として、元特攻隊員で語り部として活動をしている豊前市在住の末吉初男さん(92)の資料や、行橋市と築上町から借りた戦時資料とともに展示、紹介している。

     ただ、訪れる人はまばらだ。同センターに勤務する市教育委員会生涯学習課の坂梨祐子副主幹は「遺品や史料は、特攻とは何だったかを問いかけている。多くの人に見てもらい、平和を考えるきっかけにしてほしい」と話す。

     求菩提山麓にある岩本大尉の生家は、戦前の時代劇スター大河内伝次郎の生家そばにある。今は誰も住んでいないものの、庭などはきれいに手入れされていた。

     生家近くに住む親類の男性(75)は「益臣さんと会ったことはないが、母から益臣さんが飛行機で自宅の上空を回ったと聞いた。戦場に向かうお別れだったのではないか」と語り、岩本大尉の生家の庭や墓の掃除などを続けている。Central Vistaの再開発はランドマークに悪影響を与えません:DDA

    再開発されたCentral Vistaの外観のレンダリング。HT
     

    ムラリ・クリシュナン

    letter@hindustantimes.com

    ニューデリー:首都のセントラルビスタエリアの再開発は、エリアの歴史的建造物やラシュトラパティバワン、ノースアンドサウスブロック、国会議事堂、国立公文書館などの歴史的建造物に影響を与えません。デリー開発庁(DDA)は最高裁に語りました、それは金曜日に問題を聞くと予想されます。

    セントラルビスタは、現在の都市のニーズを考慮して再開発されており、7月4日に最高裁判所に提出された反対宣誓供述書によると、地域の遺産を保護するために「極めて繊細」に実施されます。

    HTは、宣誓供述書の写しを検討しました。

    最高裁判所は、すべての政府省庁のために新しい国会議事堂と10の管理棟を作成し、北と南のブロックを美術館に変換し、ラジパスとインドを結ぶセントラルビスタアベニューを開発する再開発プロジェクトに異議を申し立てた2つの請願を審理していますゲート。

    「勧告をしている間、DDAは遺産の建物が再開発の過程で害を受けないことを保証しました」と宣誓供述書は言いました。

    ラシュトラパティバーバン、国会、北と南のブロック、インド門など、セントラルビスタにある多くの建物は、1920年代と30年代にイギリスの建築家エドワードルティエンスとハーバートベイカーによって設計され、グレード1の遺産です。建物。

    DDAはまた、プロジェクトによって緑地が失われることはないことを強調し、5.64エーカーの緑地を追加することにより、地区公園内の9.5エーカーの緑地の損失を適切に補償することにより、セントラルビスタのオープンスペースはそのまま維持されると述べた。ラージパスとCゾーンの別の3.9エーカーに沿って。

    地区公園は、新しい国会議事堂の建設が予定されている区画であり、現在、国会議事堂の受付エリア、駐車場、その他のサービスインフラストラクチャを収容しています。

    国会議事堂内の地区公園としてマークされています。セントラルビスタ地区全体がゾーンDに含まれます。Cゾーンは、ムガル時代のロシャナラバーグや植民地時代の古い事務局複合施設などの特徴を含むシビルラインゾーンを指します。

    「9.5エーカーの現在のディストリクトパークエリアは、Dゾーン(セントラルビスタ)に5.64エーカー、Cゾーンに3.9エーカーを提供することによって補償され、緑のスペースはそのままに保たれています。修正された計画に従って、ラージパス沿いの緑地は5.64エーカー増加することを言及するのは適切です」と宣誓供述書は述べました。

    再開発プロジェクトでは、通りに沿った侵入をなくし、道の両側の緑のカバーを増やすことを提案しています。

    Rajeev Suri支持者とAntj Srivastava中佐が2月にデリーの高等法院に請願を提出し、その後、裁判所は土地利用の変更案を通知する前にDDAがそれに近づくように命じました。

    しかし、チーフジャスティスDN PatelとジャスティスC Hari Shankarの分割ベンチはこの命令に留まり、スリに最高裁判所の移動を促しました。

    最高裁判所は3月3日に、問題がより大きな公益を含むという理由で、事件全体をデリー高等裁判所からそれ自体に移送した。裁判は金曜日にAM Khanwilkar司法長官が率いる3人の裁判官が審理する。

    スリの請願は、DDAには土地利用の変化と人口密度の基準を通知する権限がないと述べた。

    「土地利用の変化は、既存の土地利用を提案されているセントラルビスタ開発/再開発計画に合わせる方向にあり、この地域の基本的な特徴や歴史を変えることはありません。DDAはその宣誓供述書で、それは中央政府省庁の再調整/再編成にすぎない」と述べた。

    土地利用の変化はデリー開発法に準拠しており、法のすべての規定とデリー開発(マスタープラン/ゾーン開発計画)規則が遵守されたと主張されました。

    Srivastavaは2月に開催された公聴会に異議を唱え、それらは意味のある演習ではないと主張しました。

    DDAはこの議論に反論し、「公聴会は2月6日と2月7日に開催されました。公聴会に参加した一人ひとりに完全な機会が与えられました。異議は審問委員会によって正式に分類され、同様の問題を提起する人物が同時に聞かれた。公聴会の機会は否定されておらず、実際、BoEHは各個人の提出を適切に検討し、その勧告を行っている」とDDAの回答は述べた。

    DDAは、提案された政府庁舎のために浮動人口は増加するが、この提案は中央ビスタ地域の居住人口密度を増加させないと述べた。

    「改造案は、90エーカーの6つの小屋に収容された既存のオフィスから移動する人(組織化されたスペースに発展する)のためにある程度相殺される浮動人口を増やします。この土地利用変更提案は、この地域の根本的な生活史と遺産を変えることはない」とDDAは述べた。

    6月の最高裁判所は、政府当局が法律に従って行動することを妨げる可能性があるとして、Lutyenのデリーの中央ビスタの再開発を2か月で2度続けることを拒否しました。

     
     
     
     

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