सूर्य की त्रिज्या लगभग 700,000 किमी और व्यास लगभग 1,400,000 किमी है, जो पृथ्वी के व्यास का लगभग 109 गुना है।

 

【速報】呉の山火事で通行止めの県道287号が片側交互に - MSN.com


https://www.msn.com/.../【速報】呉の山火事で通行止めの県道287号が片側交互に/...
 
6 日前 - 呉市蒲刈町で4日に発生した山林火災で、全面通行止めになっていた県道287号初神―恋ケ浜間は5日午前9時半、現場付近の約100メートル区間の片側交互通行になった。

呉の山火事で通行止めの県道287号が片側交互に | 中国新聞アルファ


https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id...sub...
 
6 日前 - 呉市蒲刈町で4日に発生した山林火災で、全面通行止めになっていた県道287号初神―恋ケ浜間は5日午前9時半、現場付近の約100メートル区間の片側交互通行になった。

【速報】呉の山火事で通行止めの県道287号が片側交互に | 中国新聞アルファ


https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id...sub...
 
6 日前 - 呉市蒲刈町で4日に発生した山林火災で、全面通行止めになっていた県道287号初神―恋ケ浜間は5日午前9時半、現場付近の約100メートル区間の片側交互通行になった。 (ここまで 81文字/記事全文 81文字)

広島県道287号上蒲刈島循環線 - Wikipedia


https://ja.wikipedia.org/wiki/広島県道287号上蒲刈島循環線
 
広島県道287号上蒲刈島循環線(ひろしまけんどう287ごう かみかまがりじまじゅんかんせん)は、広島県呉市にある上蒲刈島を一周する一般県道である。 ... 安芸灘大橋から大浦港へ向かう場合は、慣れない場合は初神から蒲刈広域農道(蒲刈トンネル)へ入り、田戸で県道に復帰して大浦港を目指す方がよい。 ... 年(平成12年)3月24日に呉市蒲刈町大浦原 - 呉市蒲刈町田戸初神間の通行不能区間が解消され、ようやく自動車で島内一周ができるようになった。 ... 県民の浜: 恋ヶ浜交差点より市道を約1.4km東進。

上蒲刈島の山火事 火勢弱まるも鎮火至らず | 広島ニュースTSS | TSS ...


www.tss-tv.co.jp/tssnews/000003408.html
 
4日、発生した呉市・上蒲刈島の山火事はおよそ20ヘクタールを焼き現在も延焼していますが、火の勢いは収まってきています。 ... なお、火事の影響で全面通行止めとなっていた県道287号線の初神〜恋ヶ浜間は午前9時半に一部の区間を除き、通行が可能 ...

呉市・上蒲刈島山火事 島の現状を加藤フィールドキャスターがリポート ...


www.tss-tv.co.jp/tssnews/000003449.html
 
今月4日、呉市の上蒲刈島で発生した大規模な山火事。きのう、ようやく鎮火し今朝から警察と消防による実況見分が行われました。 【加藤フィールドキャスター】 「この斜面一面、黒く焼け焦げています。そしてこちら、ここから下も火が広がり、木も根本から焦げ、 ...

上蒲刈島の山火事 火勢弱まるも鎮火至らず - FNN.jpプライムオンライン


https://www.fnn.jp/posts/2019040500000003TSS/201904051216_TSS_TSS
 
6 日前 - 4日、発生した呉市・上蒲刈島の山火事はおよそ20ヘクタールを焼き現在も延焼していますが、火の勢いは収まってきています。 4日昼過ぎに発生した呉市・上蒲刈島の山火事は勢いを弱めながらもまだ鎮火していま.

【火事】広島県呉市蒲刈町大浦で火災 煙あがる : まとめダネ!


https://matomedane.jp/page/26373
 
2019/04/04 - 上蒲刈島#山火事 pic.twitter.com/fGw36zYzb3 · 返信 リツイート いいね 2019.04.04 17:43:12 · 玖遠@tQr3P6VSy6yzbDJ. 地元で山火事〜 昼の1時くらいから燃えてるらしいけど未だ鎮火ならず。 いつ消えるんかな……… 消防のヘリ ...

呉市・上蒲刈島で山火事 林野火災 4/4 | ニュースフラッシュ


https://pikarinnews.net › 火事・火災情報
 
7 日前 - 岡村方面から蒲刈向かってたら、大量の煙が上がってて何事か思った山火事 火が見えたのは、県民の浜方面の山で煙は風の影響か ... 広島県呉市上蒲刈島で火事、延焼中、付近に寄らないで下さい"(-""-)" pic.twitter.com/t4WxpdDREd.

呉市・上蒲刈島の山火事 火勢衰える|NNNニュース - 日テレNEWS24


www.news24.jp/sp/nnn/news16281199.html
 
6 日前 - 4日昼頃、呉市の上蒲刈島で起きた山林火災は5日午前までに20ヘクタールが焼けた。火の勢いはおさまったが鎮火には至っていない。住宅などへの被害はなく、ケガ人もいない。火事の原因について警察は失火の可能性も視野に調べて ..

呉市上蒲刈島で山火事|NHK 広島のニュース


www3.nhk.or.jp/hiroshima-news/20190404/0004080.html
2019/04/04 - 4日昼すぎ、呉市の上蒲刈島で山火事があり島の広い範囲が、一時、煙で覆われ現在も消火活動が続けられています。 4日午後0時40分ごろ、呉市…

呉市上蒲刈島の山火事鎮圧|NHK 広島のニュース


www3.nhk.or.jp/hiroshima-news/20190405/0004091.html
6 日前 - 4日昼すぎ、呉市の上蒲刈島で発生した山火事は、ヘリコプターで上空から水をまくなどして消火活動が続けられた結果、警察によりますと5日午後4時…

呉・上蒲刈島で山火事(RCC中国放送) - Yahoo!ニュース


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190404-00280600-rccv-l34
2019/04/04 - 4日昼過ぎ、呉市の上蒲刈島で山火事が発生しました。現在も消火活動が続いています。

動画2010年 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/2010年
2010年(2010 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。平成22年。この項目では、国際的な視点に基づいた2010年について記載する。 目次. 1 他の紀年法; 2 カレンダー; 3 できごと. 3.1 1月; 3.2 2月; 3.3 3月; 3.4 4月; 3.5 5月; 3.6 6月; 3.7 ...
2010年の日本
2010年の日本(にせんじゅうねんのにほん)では、2010年(平成22年)の ...
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2010年 (映画)
『2010年』(にせんじゅうねん、原題: 2010: The Year We Make ...
2010年宇宙の旅
『2010年宇宙の旅』(2010ねん うちゅうのたび、原題:2010: Odyssey ...
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Category:2010年のテレビアニメ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:2010年のテレビアニメ
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Office 2010 のダウンロード | Office 2010 プロダクト キー - Microsoft Office
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2010 (1984) - IMDb
www.imdb.com/title/tt0086837/
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Adventure · A joint U.S.-Soviet expedition is sent to Jupiter to learn what happened to the Discovery.
サマーソニック2010 - SUMMER SONIC 2017
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SUMMER SONIC 2010公式サイト 2010年8月7日(土)・8日(日)の2日間開催! 東京会場:千葉マリンスタジアム&幕張メッセ 大阪会場:舞洲サマーソニック大阪特設会場.
2010 Giant Bicycle [ Bikes ]
www.giant.co.jp/giant10/bikes.php
RIDE LIFE. RIDE GIANT. わたしたちGIANTは、魅力的で幅広い製品ラインナップを通じて、世界中の人々を自転車というすばらしい冒険へと駆り立ててまいります。
よくわかる Access 2010基礎: - 108 ページ - Google ブック検索結果
https://books.google.co.jp/books?isbn=4893118544
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野呂高原ブルーベリー
norokogen.web.fc2.com/
野呂山へ行こうブルーベリー狩り ブルーベリー170品種約550本を育てています。 TOPICS. 夏は、ブルーベリー摘み取りとジャガイモ(インカの目覚め)堀り・秋は、さつまいも掘りが楽しめます。 完全無農薬・化学肥料を使用しない農業に取り組んでいます。
17/08/05 にこのページにアクセスしました。
農園方針 - 野呂高原ブルーベリー
さつまいも堀り開園しました。予約をしてお越し下さいませ。 開園期間 ...
アクセス?-?野呂高原ブルーベリー
野呂高原ブルーベリー. 所在地: 〒737-2306 広島県呉市安浦町 ...
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野呂高原ブルーベリー 広島県呉市野呂山
ground-life.com/
農 園 か ら の お 知 ら せ コ ラ ム. norojamu. 2017-02-08. 1年を通して美味しいブルーベリーをご提供させていただきます。 blueberry. 2017-02-08. どなたにも安心して食べていただけるものを堤供する野呂高原ブルーベリー ...
野呂山キャンプ場 - 野呂高原ロッジ
www.norosan.or.jp/camp/otoku/index.html
通年プラン(GW・お盆・年末年始は除く): 詳しくはこちら: 野呂山満喫プラン: 夕食は手軽にキャンプ場でバーベキュー。後はゆっくり野呂高原ロッジで宿泊とご朝食。 通年プラン(GW・お盆・年末年始は除く): 詳しくはこちら: スポーツ合宿プラン: 西の軽井沢と呼ばれ ...
野呂高原ロッジ|国民宿舎「瀬戸内海国立公園 野呂山」広島・呉
www.norosan.or.jp/
国民宿舎野呂高原ロッジは標高800mの野呂山にある国民宿舎(公共の宿泊施設)です。
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評価
国民宿舎野呂高原ロッジ
3.7
(27) · 旅館・イン
36.6 km · 広島県呉市川尻町板休5502−37 · 0823-87-2390
ウェブ サイト
ルート
野呂山キャンプ場
3.0
(8) · キャンプ場
36.9 km · 川尻町板休 · 0823-87-2297
ウェブ サイト
ルート
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2017/05/16 - 次の検索結果を表示しています: noro ブルーベリー 元の検索キーワード: noro buru-beri- 検索結果 野呂高原ブルーベリー norokogen.web.fc2.com/ 野呂山へ行こうブルーベリー狩り ブルーベリー170品種約550本を育てています。 TOPI...
ノロウイルスの原因とは?食べ物以外もあるって本当!? | 病気と健康に ...
kenkousalon.xyz › お腹が痛い(腹痛・下痢・嘔吐)
2016/06/28 - その他のノロウイルス食中毒として,欧米では「~ベリー」(ストロベリー,ラズベリー,ブルーベリーなど)による食中毒が注目されています。 わが国では,井戸水,地下水などの水を介した食中毒事例が4件報告されています。 ノロウイルスの汚染 ...
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www.nihs.go.jp › ... › 食品衛生管理部 › 第四室 › ノロウイルス関連情報
2012/12/27 - その他のノロウイルス食中毒 その他のノロウイルス食中毒として,欧米では「~ベリー」(ストロベリー,ラズベリー,ブルーベリーなど)による食中毒が注目されています。2012年9月ドイツの複数の州で中国産のイチゴが原因と推定される患者 ...
ブルーベリーの花|noroのブログ - アメーバブログ
https://ameblo.jp/happy-days1107/entry-12000915203.html
2015/03/13 - 芽を出し始め、もう少し暖かくなったらその葉っぱがどんどん大きくなってブルーベリーの実をつけるんだと思います。 以前ブルーベリーを庭に植えた事がありますが、残念ながらその時は枯れてしまいました。 今度はちゃんと実を付けてくれるか ...
noro ブルーベリーに関連する検索キーワード
広島 大崎 上島 ブルーベリー
ブルーベリー狩り 島根
ブルーベリー 植え替え
ブルーベリー 栽培
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ブルーベリー 目
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野呂高原ロッジ|国民宿舎「瀬戸内海国立公園 野呂山」広島・呉
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そこはあえてのブルーベリー | 劇団鈍-NORO-のブログ 「鈍行」 - Jugem
gekidannoro.jugem.jp/?eid=728
2017/02/21 - どうもどうも、お久しぶりでございます。 4年のぐりでございます。 いやぁ、私も気付けば、卒業間近。鈍に入ったのは昨日のようなんですけどもねぇ…。はたち超えてからというもの、時の流れが急激に早くなってる気がする今日この頃。身体の方 ...
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曖昧さ回避 この項目では、エジプトの都市について説明しています。暖房器具については「懐炉」を、その他の用法については「カイロ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
カイロ
القاهرة
Cairo
エジプトの旗
Cairo Montage.png
カイロの市旗 カイロの市章
市旗 市章
位置
の位置図
座標 : 北緯30度03分22秒 東経31度14分22秒
行政
国 エジプト
県 カイロ県
市 カイロ
Governor Dr. Abdul Azim Wazir
地理
面積
市域 214 km2 (82.6 mi2)
都市圏 5360 km2
人口
人口 (2006年現在)
市域 675万8581人
市街地 1174万8240人
都市圏 1629万2269人
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 なし
公式ウェブサイト : http://www.cairo.gov.eg/
カイロ(アラビア語: القاهرة‎, al-Qāhira, アル・カーヒラ、Al-Qahirah.ogg 発音[ヘルプ/ファイル], コプト語: ⲕⲁϩⲓⲣⲏ, Kahire, 英語: Cairo)は、エジプトの首都。アフリカ、アラブ世界で最も人口の多い都市であり、その地域を代表する世界都市の一つ。アラブ連盟の本部所在地でもあり、アラブ文化圏の中心都市でもある。
目次 [非表示]
1 概要
2 歴史
2.1 古代
2.2 イスラム帝国時代
2.3 カイロ市の成立
2.4 近世以降
3 地理
4 市内の地理
4.1 新市街
4.2 旧市街
4.3 オールド・カイロ
4.4 東部
4.5 北部
5 気候
6 経済
7 交通
7.1 空路
7.2 鉄道
7.3 地下鉄
7.4 路面電車
7.5 バス
7.6 タクシー
7.7 トゥクトゥク
8 文化
9 教育
10 スポーツ
11 世界遺産
11.1 登録基準
12 ゴミ問題
13 姉妹都市
14 脚注
15 関連項目
16 外部リンク
概要[編集]

カイロ市街

カイロ市街

ナイル川のゲジラ島から見た中心部、手前右にオペラハウス
ナイル川下流河畔の交通の要衝として、中世に建設されてより現在にいたるまで長い時代を通じ、イスラム世界の学術・文化・経済の中心都市でありつづけた。都市自体の人口は675万8581人(2006年)、近郊を含む都市圏人口は1,591万人で、世界第17位である[1]。
アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界62位の都市と評価された[2]。アフリカの都市ではヨハネスブルグに次ぐ2位である。一方、日本の民間研究所が2016年に発表した「世界の都市総合力ランキング」では世界41位と評価されており、アフリカでは1位である[3]。プライスウォーターハウスクーパースが公表した調査によると、カイロの2008年の都市GDPは1450億ドルで、世界第42位、アフリカでは第1位である[4]。
エジプトの乾燥した大地にナイル川が形作った肥沃なデルタ地帯のほぼ南端、要に位置し、河谷を流れてきたナイル川がデルタを形成する、その先端に位置する。エジプトはナイル河谷地方の上エジプトとデルタ地方の下エジプトとに古代エジプト以来2分されているが、その両者の接点にカイロは位置する。イスラム帝国が7世紀にエジプトを征服したとき、征服者アラブ人の住まう軍営都市(ミスル)が置かれて以来のエジプトの首府である。
日本語でよく知られる都市名のカイロは、英語名の Cairo に由来しており、現地語であるアラビア語ではカーヒラ(القاهرة ; al-Qāhira、現代エジプト方言ではカーヘラ)という。しかし、現在でもミスル(مصر ; Miṣr、現代エジプト方言ではマスル。もともとは「エジプト」を意味する呼称)という通称がよく用いられる。
カイロの中心市街はナイル川の右岸、東側に位置する。ナイルをはさんで対岸の西郊には、ピラミッドで有名なギーザの町がある。町の南は古代エジプトの中心都市のひとつ、メンフィスである。
歴史[編集]

カイロ郊外、ギーザの三大ピラミッド

カイロ郊外、ギザの大スフィンクスとカフラー王のピラミッド

エジプト考古学博物館
古代[編集]
古代エジプトからローマ属州時代は、ヘリオポリスが近郊にあったが、カイロ自体はナイルデルタの湿地帯に小規模の集落が点在するだけの未開地だった。定住者が少なかったこともあって、イスラム帝国侵攻前の時代の遺跡はほとんど見つかっていない。ナイル川対岸の西側のギーザ台地には三大ピラミッドが築かれているが、そのギーザも古王国時代の終焉とともにピラミッド信仰も衰退していったため、新王国時代には廃墟となっていた。
アケメネス朝の時代に現在のバビロン城のあるところに砦が築かれたとの説(ヨセフス)もあるが、アウグストゥスの時代に3つの軍団の司令部が置かれた(史料:It. Anton.(英語版); Georg. Ravenn. etc.) 。ローマの支配時代を通じて、バビロン城に軍団が駐屯し、現在でも遺跡が残っている。
イスラム帝国時代[編集]
イスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースは、639年にエジプトへの侵攻を開始し東ローマ帝国の駐留軍を破り、643年にローマ軍の駐屯都市バビュロンの近くにアラブによるエジプト支配の拠点として軍営都市を築き、「フスタート」の名を与えた。フスタートは現在カイロ市内の一部となっている地区である。初代エジプト総督となったアムルはフスタートの建設を進めるとともに、エジプトに灌漑施設を建設するなど支配の構築に努め、フスタートはその後ファーティマ朝時代まで一貫してエジプトの首府の地位を保つこととなった。フスタートはその後、ウマイヤ朝、アッバース朝のエジプト州治所となった。7世紀のアッバース朝時代にはフスタートの北部にアスカルという新しい町を築き、ここがアッバース朝のエジプト支配の拠点となった。
9世紀にはいるとアッバース朝は弱体化が顕著になり、868年にはトゥールーン朝が事実上独立してフスタートに首都を置いた。トゥールーン朝始祖のアフマド・イブン=トゥールーンは870年にはアスカルのさらに北にカターイーの町を築き、イブン=トゥールーン・モスクを建設した。その後トゥールーン朝は弱体化して905年には再びアッバース朝に征服されたものの、すでにアッバース朝に昔日の勢いはなく、935年には再び半独立のイフシード朝の首都となった。
カイロ市の成立[編集]
フスタートは、969年に現在のチュニジアに興ったシーア派(イスマーイール派)のファーティマ朝の送り込んだ遠征軍の将軍ジャウハルによって征服された。ジャウハルはフスタートの北3km郊外の地点(カターイーの北)に新たに「勝利の町」を意味する「ミスル・アル゠カーヒラ」の名をもち、ファーティマ朝のカリフが住む宮殿と、イスマーイール派の学術センターとして建設されたアズハル・モスクを中心に1km四方の方形の城壁を備えた新都を建設した。以来、カイロはファーティマ朝200年の首都となるが、この時点ではカイロには政治機能しか与えられておらず、紅海と地中海をつなぐ中継貿易の拠点としての経済機能は依然として旧市フスタートに残されていた。政治都市の方は、カーヒラ(カイロ)と呼ばれ、経済都市フスタートの方はミスルと呼ばれるようになった(元々フスタートもミスルと呼ばれていた)。6代カリフのハーキムは奇矯な行動で知られる一方で学問を奨励し、光学のイブン・アル・ハイサムなどの優れた学者を輩出してイスラム科学にカイロ学派と呼ばれる一時代を築いた。
ファーティマ朝は12世紀に入ると混乱を極めるようになり、十字軍にも有効な手が打てなかった。十字軍国家であるエルサレム王国はたびたびファーティマ朝に侵攻し、ファーティマ朝はエルサレム王国に貢納することで平和をあがなったが、1168年には貢納の不払いを理由にエルサレム王国のアモーリー1世軍がエジプトに侵攻したのに対し、宰相のシャーワルはフスタートを焼き払って焦土戦術を取った。フスタート市民はカイロに逃げ、以後カイロは商業都市として発展を始めることとなった。1169年にはザンギー朝の部将シールクーフがカイロに入城したが、わずか2ヵ月後に急死し、かわって甥のサラーフッディーンが実権を握った。
1169年にファーティマ朝にかわってカイロでアイユーブ朝の政権を確立したサラーフッディーン(サラディン)は、ファーティマ朝の政府施設を接収するとエジプトの政府機能の一切をカイロに集約させ、カイロ南東のモカッタムの丘の端に城砦(シタデル)を建設して守りを固めるとともに、城壁と市街を南に拡大してフスタートをカイロに取り込ませる形で都市の拡張を進めた。この事業はアイユーブ朝に続くマムルーク朝の時代に至って完成し、東西交易によって空前の繁栄を迎えた。1258年にバグダードがモンゴルに征服された後はアッバース家末裔のカリフもカイロへと迎えられてイスラム世界の政治的・精神的な中心地ともなり、スンナ派を奉じたサラーフッディーンによってシーア派からスンナ派のイスラム学院に改められたアズハルはスンナ派イスラム世界の最高学府として高い影響力をもつようになった。カイロの町にはアイユーブ朝、マムルーク朝のスルタンやアミールなど有力者によって盛んに建築事業が行われ、モスクをはじめ多くの歴史的建造物が立ち並ぶイスラム都市としても発展した。カイロの旧市街は世界遺産にも登録されている。
しかし、14世紀に頂点を迎えたカイロの繁栄は、15世紀以降、ペストの流行などが原因で次第に衰えを見せ始めた。
近世以降[編集]
1516年にマムルーク朝がオスマン朝に征服されると、オスマン帝国の一地方であるエジプト州(英語版)の州都に過ぎなくなったカイロからはスルタンもカリフもいなくなって政治的な重要性は失われ、文化活動も沈滞した。しかし、依然として活況を呈する交易によって人口も回復し、再び繁栄に向かいつつあった。
1798年、ナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征を行い、7月21日にピラミッドの戦いにおいてマムルークたちの軍に勝利し、翌22日にはカイロを占領した。ナポレオンはイズベキーヤ湖近くに司令部を置いたが、しかしエジプトを統治することに失敗したナポレオンがカイロに滞在したのは1799年8月22日までの1年余りに過ぎず、フランス軍も1801年8月には降伏する。

1847年のカイロ市地図

19世紀後半のシタデル
彼らの侵攻によりエジプト情勢は動揺を続けるが、やがてアルバニア傭兵隊の隊長だった軍人ムハンマド・アリーが後の混乱をぬって台頭し、エジプトの世襲支配者として君臨するに至ると、半独立のムハンマド・アリー朝のもとで再びカイロは政治の中心となり、都市の近代化が進められた。とくに19世紀後半のエジプト太守イスマーイール・パシャは近代化に熱心であり、スエズ運河の開通にあわせてナイル川東岸の低湿地を開発して、パリの都市計画に倣った新市街を旧市街の西側に建設した[5]。イズベキーヤ湖は埋め立てられて公園となり、それ以西のエリアが開発された。イスマーイール・パシャは新市街にあったアブディーン宮殿を改造して居城とし、シタデルに代わって以後はアブディーン宮殿がエジプトの統治者の居城となった。また、1856年にはアレキサンドリアとカイロを結ぶ鉄道が開通し、ミスル駅(現ラムセス駅)が開業した。しかしこれをはじめとするイスマーイール・パシャの近代化政策はエジプト財政を破綻させ、エジプトはイギリスの保護領となった。その後もカイロの開発は続けられ、1894年には東部郊外の砂漠にニュータウンとしてヘリオポリスが建設され、以後続々とカイロ郊外に建設されるニュータウンの嚆矢となった[6]。20世紀に入るとゲジーラ島が高級住宅街化し、カイロ駅北のショブラ地区が労働者の居住地区となった。

2011年2月8日のタハリール広場のデモ
1922年にエジプトは独立をはたし、カイロはその首都となったものの、政治の実権は未だイギリスが握っており、これに不満を持った市民は1952年1月26日に黒い土曜日といわれる大暴動を起こした。この混乱の中、7月23日にはナーセル率いる自由将校団がクーデターを起こし、ファールーク国王を追放した。エジプト革命である。
革命政府はカイロの近代化を進め、東部郊外のナセルシティなどに高級住宅街の開発が進められた。カイロの人口は急速に増大し、カイロ都市圏の人口は1907年に95万人だったものが、1936年には160万人、1952年には290万人、1988年には1200万人に達した[7]。しかし急激な開発はカイロへの富の集中と市内での貧富の差を生み出し、やがて2011年、ホスニー・ムバーラク大統領の長期政権に不満を持った市民が市の中心部である新市街のタハリール広場などに集結して、抗議デモを行い、これによりムバーラク政権は崩壊した(エジプト革命 (2011年))。
また、2012年頃からは電力不足により停電が常態化しており、2014年には都市部においても1時間の停電が1日に3、4回起きることもある[8][9]。同年9月には1日近くに亘る停電も発生し都市機能は麻痺した[10]。これに対してアブドルファッターフ・アッ=シーシー大統領は、120億ドルの資金が電力解消に必要であり、エジプトは現在それだけの経済的余裕を有していないと述べており、改善の見通しは全く立っていない[11]。
地理[編集]

カイロ上空からの衛星写真
ナイル川は平坦な砂漠を流れる河川ではなく、東はアフリカ大地溝帯につらなる山脈によって紅海とさえぎられている。カイロ周辺では、南東に約100km離れたガララアルババリーヤ山 (1274m) などが際立つ。ナイル川の西側も高地であり、ナイル川が流路を変える可能性は低い。
ナイル川の水の恵みを受けているのは南北に連なる幅15~20kmの細長い地域だけで、カイロ市外の南方10km まではこのような風景が続く。カイロは二つの高地が終わるちょうど扇状地の扇頂に相当する位置に広がる。このため、カイロ自体の標高は15mから60m程度だが、南東方向に2km進むだけで標高150mにまで達する。この地区はモカッタム丘陵と呼ばれる。
市内の地理[編集]
カイロの市域はナイル川の東岸及び二つの中州(ゲジーラ島、ローダ島)に限られており、ナイル川の西岸はギーザ市である。カイロとギーザの市街地は一体化しており、カイロ地下鉄の路線もギザまで延び、またカイロ動物園やカイロ大学も所在地はギーザである。
新市街[編集]

タハリール広場とモガンマア
カイロの中心は、ナイル川東岸にほど近いタハリール広場である。タハリール広場の周辺にはモガンマアと呼ばれる政府庁舎ビルや国民民主党本部、カイロ・アメリカン大学の元キャンパスやエジプト考古学博物館、アラブ連盟本部ビルなどがあり、またカイロ地下鉄のターミナルであるサダト駅もこの地下にある。2011年エジプト騒乱においては、この広場に民衆が集結し、ホスニー・ムバーラク大統領の退陣を求める民主化デモの拠点となった。このあたりはカスル・アン=ニール地区と呼ばれる。タハリール広場から北東にはタラアト・ハルブ広場があり、この周辺からタラアト・ハルブ通りやカスル・アン=ニール通りにかけての一帯が繁華街となっている。その北東にはオスマン時代には湖であったところをムハンマド・アリー朝時代に埋め立てて作ったイズベキーヤ公園がある。さらにその北にはカイロの中央駅であるラムセス駅があり、ここからアレキサンドリアやデルタ各地、アスワンなど上エジプトに列車が走っている。また、タハリール広場から東に400mほどのところにムハンマド・アリー朝の王宮であり、現大統領府であるアブディーン宮殿がある。タハリール広場から南のナイル川沿いはガーデン・シティと呼ばれ、イギリス統治時代にエジプト総督府がおかれ開発が進められたエリアである。ガーデン・シティの名の通り、庭園に囲まれた高級住宅街が広がっている。このタハリール広場を中心とした地域は新市街と呼ばれ、19世紀のムハンマド・アリー朝の時代に都市開発がすすめられた地域で、現在でもカイロの中心である。
新市街の向かいにはナイル川の中州であるゲジーラ島が浮かぶ。ゲジーラ島は北部が高級住宅街であるザマーレク地区、南部は現代美術館などの博物館地域と緑地となっており、南部の中央付近に高さ187mのカイロタワーが立っている。ゲジーラ島中央部とエジプト考古学博物館の間にはカイロの交通の大動脈である10月6日橋がかかっており、この橋を通る10月6日通りはギーザとゲジーラ島、新市街中心部をつないでいる。
旧市街[編集]

螺旋状のミナレットが残るイブン=トゥールーン・モスク
新市街から東には旧市街(イスラーム地区)が広がる。この地区はファーティマ朝時代に建設された本来のカイロにあたる地域である。旧市街北部にはアズハル・モスクと988年に創立されたイスラム世界最古の大学であるアズハル大学がある。アズハル大学の隣には1382年に宿場が作られて以来大規模なスークとなっているハーン・アル=ハリーリーがあり、現在では土産物屋が軒を連ね、観光名所となっている。旧市街のメインストリートは市街中央を南北に結ぶムイッズ通りである。ここにはファーティマ朝時代道の東西に宮殿が建っていたことから、バイナル=カスライン(二つの宮殿の間)とも呼ばれる。
旧市街南部、モカッタムの丘にあるシタデルは、1176年にアイユーブ朝の創始者サラーフ・アッディーンが築いた王宮であり、その後のマムルーク朝やオスマン帝国の時代も使用され、19世紀半ばにアブディーン宮殿が建設されるまで700年近くカイロの政治の中心だった。ここには、ムハンマド・アリーモスク(ガーマ・ムハンマド・アリー)が建設されており、市内のランドマークとなっている。シタデルをはさむようにして市街の東側に南北に伸びているのが死者の街と呼ばれる墓地である。エジプトの墓地は屋根のついた家のようなつくりになっており、貴重なものも多く世界遺産に登録されているが、カイロの急拡大にともなって市街地に収容し切れなかった人々が墓へと住み着き、2万人が居住しているといわれる。シタデルの西は古いカターイーの町のあった辺りであり、イブン=トゥールーン・モスクなどが建っている。
オールド・カイロ[編集]
詳細は「オールド・カイロ」を参照

ローダ島のナイロメーター
新市街からナイル川沿いに南には、オールド・カイロがある。ここはカイロで最も古い市街地であり、コプト教徒が多く住む地域でもある。コプト地区にはコプト博物館やギリシア正教会の修道院、ユダヤ教のシナゴーグなどがある。コプト地区北側には、アムル・イブン・アル=アース・モスクがあり、その東側にはカイロ発祥の地であるフスタートの遺跡がある。12世紀の大火により焼失し、一度は再建されたものの14世紀にペストの蔓延によって放棄されて以降、この地は廃墟となっている。そのさらに昔の、ローマ帝国やビザンツ帝国時代の支城であるバビロンの遺構も残っている。
オールド・カイロの対岸にはナイル川の中州であるローダ島が浮かんでいる。ローダ島の南端には861年に建てられたナイル川の水位計であるナイロメーターが設置されている。
東部[編集]
ナイル川沿いの市域西部と違い、市の東部は20世紀も後半になって開発された地域である。カイロ中心部のベッドタウンとしての性格が強い。まず東部の中央にあるヘリオポリスが開発され、さらにその南東に続いてナセルシティが建設された。ナセルシティにはカイロ最大のスタジアムであるカイロ国際スタジアムがある。その東にはカイロ国際空港があり、カイロの玄関口となっている。
北部[編集]
ラムセス駅の北はショブラ地区、北西はブーラーク地区と呼ばれる。どちらもムハンマド・アリー朝時代に開発が進められたエリアで、工業化政策に伴い多くの工場が置かれた。ブーラーク地区はかつてはゲジーラ島とともに大きなブーラーク島を形成していたが、ナイルの河道の変化によって両地区は切り離され、ブーラーク地区は東岸と一体化した。この地区にはエジプト国立図書館が置かれている。

ナイル川のパノラマ、中央やや左にカイロ・タワーが見える。
気候[編集]
ケッペンの気候区分では砂漠気候 (BWh)。
カイロの位置は、北緯30度03分、東経31度15分であり、主要都市では中華人民共和国の武漢や、アメリカ合衆国のヒューストンやニューオーリンズと同じ緯度である。経度ではロシアのサンクトペテルブルクやウクライナのキエフと近い。年間を通して南風が吹き、特に4月から5月にかけてはハムシーンと呼ばれる砂嵐が続く。年平均降水量は26.7mmと低い。カイロがアフリカ一の大都市、砂漠気候に位置する都市として最大の都市となりえたのはまさにナイルの恵みのためである。
もっとも寒い1月の平均気温は14.0℃であり、もっとも暑い7月は28.4℃である。4月に南西のリビア砂漠のほうから吹き付けるハムシーンの季節を除けば大気が乾燥していることもあって過ごしやすい。降雨はほとんどなく、とくにもっとも乾燥する7月から9月にかけては全く降雨がない[12],[13]。逆に冬季には数日間だが曇天の続くことがあり、わずかながら降雨もある[14]。晴天であれば冬は気温もあまり下がらず、ヨーロッパ方面から避寒を兼ねて観光客が多く来るのもこの季節である。

[隠す]カイロの気候
月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年
平均最高気温 °C (°F) 18.9
(66) 20.4
(68.7) 23.5
(74.3) 28.3
(82.9) 32.0
(89.6) 33.9
(93) 34.7
(94.5) 34.2
(93.6) 32.6
(90.7) 29.2
(84.6) 24.8
(76.6) 20.3
(68.5) 27.8
(82)
日平均気温 °C (°F) 14.0
(57.2) 15.0
(59) 17.6
(63.7) 21.5
(70.7) 24.9
(76.8) 27.0
(80.6) 28.4
(83.1) 28.2
(82.8) 26.6
(79.9) 23.3
(73.9) 19.5
(67.1) 15.4
(59.7) 21.8
(71.2)
平均最低気温 °C (°F) 9.0
(48.2) 9.7
(49.5) 11.6
(52.9) 14.6
(58.3) 17.7
(63.9) 20.1
(68.2) 22.0
(71.6) 22.1
(71.8) 20.5
(68.9) 17.4
(63.3) 14.1
(57.4) 10.4
(50.7) 15.8
(60.4)
降水量 mm (inch) 5.0
(0.197) 3.8
(0.15) 3.8
(0.15) 1.1
(0.043) 0.5
(0.02) 0.1
(0.004) 0.0
(0) 0.0
(0) 0.0
(0) 0.7
(0.028) 3.8
(0.15) 5.9
(0.232) 24.7
(0.972)
平均降水日数 (≥ 0.01 mm) 3.5 2.7 1.9 0.9 0.5 0.1 0.0 0.0 0.0 0.5 1.3 2.8 14.2
平均月間日照時間 217 232 279 300 310 360 372 341 300 279 240 186 3,416
出典: 世界気象機関(国連)[15], BBC Weather[16] for data of sunshine hours
経済[編集]
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交通[編集]

カイロ地下鉄の路線図

カイロ地下鉄の駅

市内を走るバス
空路[編集]
エジプト航空のハブ空港でもあるカイロ国際空港が、市内から15kmの距離にある。日本の成田国際空港と関西国際空港の間に直行便が就航していたが運休が続いている。市内中心部まで路線バスが往復している。将来、延伸工事中の地下鉄3号線が乗り入れる予定。
鉄道[編集]
ラムセス駅が中央駅で、エジプト鉄道(エジプト国鉄)がアレクサンドリア・ルクソール・アスワン方面へ運行しているが、南部上エジプト方面へは立ち入り制限区域の関係で外国人の乗車できる列車が限定される(制限区域内の駅での外国人車両のドア扱いが無い)。
地下鉄[編集]
カイロ地下鉄が3路線運行している。料金は全線均一の1LEで、場内において乗り換え可能である。運行本数は多いがいつも混雑している。女性専用車両を連結している。現在3号線がヘリオポリス方面で建設中であるほかに、4号線が具体的な計画段階になっている。
路面電車[編集]
市内中心部(ラムセス中央駅)からヘリオポリス方面に6系統運行しており、途中のアイン・シャムス大学前駅までメトロ1号線と併走している。一部ヘリオポリス内での区間運転も存在する。メトロ1号線のハルミアット=エル・ゼイツゥーン駅でヘリオポリス横断系統の5番系統と乗り換え可能。6番系統はカイロ国際空港入り口近くのサンシティモール裏のノズハまで運行している。列車編成毎に系統が固定化されており、列車の前後には行き先がしっかり表示されている。一方、時刻表が存在しないため、団子運転や逆に30分以上待っても何も来ないなど運転間隔はばらつきがちである。また主に道路のUターン部分で乗用車が軌道敷に乗り入れてくるが、列車優先のルールが存在しないため、道路渋滞の際は影響をまともに受け、遅れの原因ともなている。40年以上前に日本の近畿車輛から導入した車体が未だに使用されている。
英国統治時代の1890年代に開業した後、最盛期には営業距離が100キロメートルを超えたものの、自動車優先の政策や世論に押され、現在の運行区間はほぼ半減している。上記のように運行や所要時間が不透明なため、運賃は50ピアストル(日本円で数円)と安いものの、利用者はまばらである。廃線跡は交通渋滞解消のため道路拡幅やバス専用道路に転用されている[17]。
バス[編集]
赤、薄緑、水色の3種類のカイロ市交通局の大型・中型バスが市内をくまなく走っている。前面にアラビア#数字で系統番号が、またアラビア語で往復の始終点と経由地が書いてある。値段は系統内は距離に関係なく一律で、一乗り50pt(0.5LE)から2LE程度であり、車掌または運転手に料金を支払う。エアコン付バスは空港行きやエジプト各地へ向かう長距離バスのみ。また個人経営のミクロバスも多数運行されており、距離に応じて0.5~3LE。ミクロバスはワゴン車タイプと運転台がトラックのようで後ろに少し大きめの客室を載せたタイプとあるが、両方とも金額および運行方法は同じ。車体全部が白い車両はモハンデシーンを含むギーザ方面およびヘリオポリスやニューカイロ方面、下半分が緑の車両は北部のショブラ方面、下半分が青の車両は南部のマーディやヘルワン方面と方向別に色分けされている。
タクシー[編集]
料金システムにより、メーター制と交渉制の2種類ある。前者は白地にチェッカーフラッグ柄で、比較的車体は新しくエアコン付も多い。メーターは時間と距離の併用制のため、渋滞や交差点で滞留するとメーターが自動的に時間加算モードに切り替わり加算されていく。初乗りは2.5LEで深夜加算は無い。後者は白黒のツートンで、車体は古くエアコンが無い場合が殆どである。
トゥクトゥク[編集]
低層住宅地内では東南アジアから輸入された3輪タクシーが営業している。運転手は無免許の場合が多く、また小回りの利く車体であることから、逆走や無理な追い越し等の無謀な運転をされがちのため、利用を避ける地元民も多い。営業可能な範囲や道路が規制されていることから、市内中心部で見かけることは無い。
文化[編集]
カイロはアラビア語圏最大の都市であり、音楽や文学などの文化のアラブ圏での中心となっている。カイロは多くの文学作品の舞台ともなり、特にアラブ圏初のノーベル文学賞を受賞したナギーブ・マフフーズは自らもカイロの下町出身であり、代表作である「バイナル・カスライン」からはじまる「カイロ三部作」をはじめとする、カイロを舞台として庶民の姿を描いた多くの作品を執筆した。音楽の中心もカイロであり、東方の星といわれた大歌手ウンム・クルスームをはじめとして、多くの歌手がカイロで活動し、他のアラブ諸国からも多くの歌手がカイロへとやってきて、ここでの活動で全アラブ的な人気を獲得し、スターダムにのし上がっていった[18]。カイロはアラブ圏の映画の中心地でもあり、毎年11月から12月にかけてカイロ国際映画祭もおこなわれる。
教育[編集]

アズハル大学

エジプト最大のカイロ大学
旧市街にあるアズハル大学は、988年に創立されたアラブ世界最古の大学である。当初は建学したファーティマ朝の宗派であるシーア派のマドラサであったが、1171年までにはスンナ派となり、以後もイスラム教学の最高学府として世界中から留学生を集めてきた。1961年にはナセル政権下で総合大学となり、工学や農学といった理系学部も設立された[19]。アズハル大学が宗教教育専門だった時代、世俗教育の最高学府となっていたのは1908年に創立されたカイロ大学である。カイロ大学はキャンパスはナイル対岸のギーザにあるものの、地下鉄などによってカイロ市内と結ばれている。このほか、タハリール広場に面する1919年創立のカイロ・アメリカン大学やヘリオポリスにあるアイン・シャムス大学など、多くの大学が存在する。
スポーツ[編集]
サッカーはエジプトにおいて最も人気のあるスポーツであり、カイロには国家レベルから地域レベルに至るまでいくつかのサッカークラブが存在する。最もよく知られているクラブとしてアル・アハリとアル・ザマレクがありエジプト国内だけでなくアフリカのアラブ地域においても高い人気を持つ。両者はライバル関係にあることでも知られ優勝を争っている。カイロにはいくつものサッカースタジアムがあるが、最も大きく施設が整っているのはカイロ市東部のナセルシティにあるカイロ国際スタジアム(収容人数74100人)であり、アル・アハリが本拠として、アル・ザマレクがサブスタジアムとしてそれぞれ使用している。サッカーエジプト代表のメインスタジアムでもあり、アフリカネイションズカップ2006や2009年FIFA U-20ワールドカップの会場ともなった。
また、スカッシュの有力選手も多い。
世界遺産[編集]
世界遺産 カイロ歴史地区
(エジプト)
カイロのアズハル・モスク(英語版)
カイロのアズハル・モスク(英語版)
英名 Historic Cairo
仏名 Le Caire historique
登録区分 文化遺産
登録基準 (1),(5),(6)
登録年 1979年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
カイロの位置
使用方法・表示
1979年にユネスコの世界遺産に登録された。登録名は当初「イスラーム都市カイロ」(Islamic Cairo / Le Caire islamique)だったが、2007年に「カイロ歴史地区」に名称変更された。
登録基準[編集]
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
(5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
ゴミ問題[編集]
「マンシェット・ナセル」も参照
2009年に世界的大流行した新型インフルエンザが豚から感染すると伝えられると、国内にいる豚の全頭殺処分が行われ、輸入も禁じられた。エジプトでは政府ではなく主にキリスト教徒らが中心となって民間企業などが豚の餌として生ゴミの収集を無償で行っていたが、豚が殺処分され生ゴミの収集を行わなくなった結果、カイロなどの都市部で生ゴミが多く放置される結果となり深刻な衛生問題を抱える結果となってしまった[20]。
姉妹都市[編集]
カイロは以下の都市と姉妹都市となっている。年号は姉妹都市締結の年である:[21]。
ドイツの旗 フランクフルト(ドイツ)(1979年)
ドイツの旗 シュトゥットガルト(ドイツ)(1979年)
トルコの旗 イスタンブール(トルコ)(1988年)
スペインの旗 バルセロナ(スペイン) (1992年)
フランスの旗 パリ(フランス) (1985年)
ベラルーシの旗 ミンスク(ベラルーシ) (1998年)
ボスニア・ヘルツェゴビナの旗 サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ) (不明)
大韓民国の旗 ソウル (大韓民国)(1997年)
日本の旗 東京都(日本)(1990年)
中華人民共和国の旗 北京(中華人民共和国)(1990年)
中華人民共和国の旗 西安(中華人民共和国)(1997年)
アメリカ合衆国の旗 ニューヨーク(アメリカ)(1982年)[22]
アメリカ合衆国の旗 ヒューストン(アメリカ)(1998年)
カナダの旗 オタワ(カナダ)(1989年)
脚注[編集]
[ヘルプ]
^ 世界の都市圏人口の順位(2016年4月更新) Demographia 2016年10月29日閲覧。
^ Global Cities 2017 AT Kearney 2017年公表 2017年8月4日閲覧。
^ 世界の都市総合力ランキング(GPCI) 2016 森記念財団都市戦略研究所 2016年11月2日閲覧。
^ プライスウォーターハウスクーパースによる都市のGDP
^ 「世界の都市の物語10 カイロ」牟田口義郎 1992年10月20日第1刷発行(文藝春秋社)p274–276
^ 「世界の大都市(下)」pp42-43 高野史男編 大明堂 昭和54年6月22日発行
^ 「ビジュアルシリーズ世界再発見2 北アフリカ・アラビア半島」p95 ベルテルスマン社、ミッチェル・ビーズリー社編 同朋舎出版 1992年5月20日第1版第1刷
^ 秋山信一 (2014年7月3日). “ナイル.com:(25)「停電」はニュースではない”. 毎日新聞. オリジナルの2014年9月10日時点によるアーカイブ。 2014年9月11日閲覧。
^ 大内清 (2014年8月22日). “千夜一夜 停電で「お先真っ暗」”. MSN産経ニュース. オリジナルの2014年9月10日時点によるアーカイブ。 2014年9月11日閲覧。
^ “انقطاع-غير-مسبوق-للكهرباء-بمصر” (Arabic). Aljazeera. (2014年9月4日) 2014年9月11日閲覧。
^ “Egypt president says no magic bullet for power problems after major blackout” (English). REUTERS. (2014年9月6日) 2014年9月11日閲覧。
^ “Weather Information for Alexandria”. 2012年5月11日閲覧。
^ "BBC - Weather Centre - World Weather - Average Conditions - Cairo" - BBC Weather
^ 「世界の大都市(下)」p40 高野史男編 大明堂 昭和54年6月22日発行
^ “Weather Information for Alexandria”. 2012年5月11日閲覧。
^ "BBC - Weather Centre - World Weather - Average Conditions - Cairo" - BBC Weather
^ “【地球ぐるりとEYE】カイロから/消えゆくトラム 客まばら”. 日本経済新聞夕刊. (2017年5月16日)
^ 「世界の歴史と文化 エジプト」p285-287 新潮社 1996年12月10日
^ 「ビジュアルシリーズ世界再発見2 北アフリカ・アラビア半島」p92-93 ベルテルスマン社、ミッチェル・ビーズリー社編 同朋舎出版 1992年5月20日第1版第1刷
^ 新型インフル対策で豚処分が裏目 エジプトでゴミ問題が深刻に (1/2ページ) - MSN産経ニュース
^ “Sister city agreements”. Cairo Governorate. 2010年9月23日閲覧。
^ “New York City Global Partners”. The City of New York (2010年). 2010年1月27日閲覧。
関連項目[編集]
ニューカイロ:カイロの南東に位置する都市en:New_Cairo
エジプト
Windows2000:都市名が開発コードネームとなった。
首都
外部リンク[編集]
ウィクショナリーにカイロの項目があります。
ウィキメディア・コモンズには、カイロに関連するメディアおよびカテゴリがあります。
ウィキボヤージュには、カイロ(英語)に関する旅行情報があります。
オープンストリートマップのロゴ オープンストリートマップにカイロの地図があります。
政府
カイロ市政府 (アラビア語)(英語)
エジプト観光局 - カイロ (日本語)
日本政府
在エジプト日本大使館 (日本語)
建築遺産
イブン・トゥールーン・モスク (日本語)
スハイミー邸 (日本語)
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エジプトの旗 エジプトの人口上位都市
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エジプトの世界遺産
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アフリカの首都
典拠管理
WorldCat VIAF: 125715126 LCCN: n79055723 GND: 4029236-8 BnF: cb13181517r (data) NDL: 00628340
座標: 北緯30度03分22秒 東経31度14分22秒
カテゴリ: カイロエジプトの都市アフリカの首都カイロ県エジプトの県都エジプトの世界遺産世界遺産 か行1979年登録の世界遺産アフリカの市街地の世界遺産
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最終更新 2017年8月4日 (金) 03:16 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
テキストはク三大ピラミッド

三大ピラミッド。左手前から、メンカウラー、カフラー、クフ。

三大ピラミッドと周辺の遺構の位置関係。右上からクフ、カフラー、メンカウラー。

上空から見た三大ピラミッド
三大ピラミッド(さんだいピラミッド)は、エジプト、ギザの砂漠にある、3基のピラミッドの総称。英語ではGiza pyramid complex(ギザのピラミッド群)と呼ばれる。隣接するスフィンクスとともに、エジプトを象徴するイメージとなっている。
造営時期は現在より約4500年前の、紀元前2500年頃とされ、いずれもエジプト第4王朝期に建設されている。古代エジプト王国のファラオの墓陵であり、被葬者はクフ王、カフラー王、メンカウラー王とされる。また、それぞれのピラミッドには王妃たちのピラミッドや衛星ピラミッド、参道やマスタバ墓群などが付属しており、いわゆるピラミッド複合体(ピラミッド・コンプレックス)を形成している。カフラー王のピラミッドの参道入り口にそびえたつギザの大スフィンクスも、このピラミッド複合体の一部に含まれている。こうしたギザに広がるピラミッド付属の墓地遺跡を総称してギザの墓地遺跡(ギザ・ネクロポリス)と呼び、メンフィスとその墓地遺跡の一部として世界遺産に登録されている。
目次 [非表示]
1 前史
2 クフ王のピラミッド
3 カフラー王のピラミッド
4 メンカウラー王のピラミッド
5 地理・交通
6 俗説
7 エピソード
8 関連項目
9 脚注
前史[編集]
クフによってこの地にピラミッドが建設されるまで、ギザの地は王墓の地となっていなかった。主に王墓が建設されていたのはギザの南にあるサッカラであり、世界最古のピラミッドとされるジェゼル王のピラミッドもこの地に建設されている。このピラミッドの建設は後世に多大な影響を及ぼし、それまでのマスタバ墓に代わって以後はピラミッドが王墓の中心的な様式となった。ジェゼル王のピラミッドはマスタバ墓を6段積み重ねたような、いわゆる階段ピラミッドであったが、その後ピラミッドの建設技術は進化していった。クフの前の王であるスネフェルはダハシュールに屈折ピラミッドを建設した。これはそれまでの階段ピラミッドから一段階進み、直線の稜線を持っていたものの、下部を急角度で建設したために上部で傾斜角を緩やかにせざるを得ず、上部と下部で傾斜が異なって屈折したように見えるピラミッドとなった。スネフェルはさらにその後、同じくダハシュールに赤いピラミッドを建設した。これは美しい二等辺三角形の形をした、世界最初の真正ピラミッドであり、ここでクフ王のピラミッドの建設を可能とした技術のかなりが出そろうこととなった。
クフ王のピラミッド[編集]
詳細は「ギザの大ピラミッド」を参照
クフ王のものとされるピラミッドは、三大ピラミッドの中で最大で、高さ146.6m(現在の高さ138.8m)である。クフのピラミッドの底辺の長さは約230m。1954年、付近から長さが43m以上ある木製の「太陽の船(クフ王の船)(Khufu ship)」が分解された状態で発掘された。クフがこの地をピラミッド建設の地として選んだのは、この地が岩盤となっていて地盤が安定しており、また材料である石灰岩がこの近辺で採掘できたため、建設に有利だったことなどが挙げられる。ピラミッドの内部に入る入口は存在し、観光客も中心部にある王の玄室まで入ることが可能であるが、現在は本来の入り口は封鎖されており、観光客は9世紀にアッバース朝の第7代カリフであるマアムーンが南側に空けた盗掘用の穴から内部へと入るようになっている。また、この内部観覧は1日300人限定となっている。内部はかなり精巧に作られており、傾斜した大回廊を通ってピラミッド中央部に位置する王の玄室のほか、大回廊入口から水平通路を通ってたどり着く王妃の間や、ピラミッドの地下に存在する地下の間などが存在する。また玄室の上にはピラミッドの重量を軽減するための、いわゆる重力軽減の間とよばれる空間が存在する。
クフ王のピラミッドの東側には、3基の王妃たちの小さなピラミッドが南北に並んでいる。その東側は多数のマスタバ墓が立ち並んでおり、貴族たちが埋葬されている。このマスタバ群はピラミッドの西側にも存在する。また、ピラミッドの南側には太陽の船を展示している太陽の船博物館が存在している。
クフ王のピラミッドはエジプトのピラミッドの中でも最大、さらにもっとも美しいものとして知られ、古くから非常に著名であった。紀元前2世紀にビザンチウムのフィロンによって選ばれた世界の七不思議のうちのひとつであり、またそのなかで唯一現存する建造物である。
カフラー王のピラミッド[編集]

ギザの大スフィンクスとカフラー王のピラミッド
詳細は「カフラー王のピラミッド」を参照
カフラー王のものとされるピラミッドは、三大ピラミッドのうち中央に位置する。高さはおよそ136メートル(頂上部分が一部崩れているため、創建当時より低くなっている)。頂上付近に創建当時の化粧石が一部残っている。見かけ上、三大ピラミッドの中でもっとも高いように見えるが、それはカフラー王のピラミッドが立っている岩盤が、クフ王のそれに比べてやや高くなっているためで、実際はクフ王のピラミッドの方が高い。内部には通路と玄室が存在するのみで、その玄室も中空にあったクフ王のものとは違い、地面と同じ高さに建設されている。カフラー王のピラミッドの東側には葬祭殿が存在し、そこから東へと参道が伸びている。参道の入り口にはギザの大スフィンクスが存在する。この位置関係から、ギザの大スフィンクスはピラミッドを守護するためにカフラー王によって建設された、ピラミッド複合体の一部であるという説が最も有力であるが、カフラー王のピラミッドを除いてこうしたスフィンクスが存在するピラミッドは存在せず、それ以外はほかのピラミッド複合体とすべて共通しているため、スフィンクスはピラミッド建設以前から存在し、それを取り込むようにしてカフラー王がピラミッドを建設したという説も存在する。
スフィンクスはもともとあった岩山をそのまま掘り下げて建設したものであり、一枚岩としては世界最大の石像である。そのため、過去何回か首まで砂にうずもれ、その後掘り起こされるといったことを繰り返している。スフィンクスの東にはスフィンクス神殿が、さらにその東にはカフラー王ピラミッドの河岸神殿が存在する。
メンカウラー王のピラミッド[編集]
詳細は「メンカウラー王のピラミッド」を参照
メンカウラー王のものとされるピラミッドは、三大ピラミッドの中ではもっとも小さい。高さおよそ65メートル。ただしピラミッド複合体の規模としては、ほかの2つのピラミッドに劣らない規模を備えている。ピラミッドの南側には、3基の王妃たちの小さなピラミッドが東西に並んでいる。参道も存在し、東へと延びている。北面には大きな傷跡が残るが、これはピラミッドを破壊しようとしたものが破壊できずに終わったものの名残であるという。
地理・交通[編集]
カイロ市中心部から西南西13kmの地点にある。周辺はギザ市に属する。ギザ市南部のギザ広場からクフ王ピラミッド北側まではアフラーム通り(ピラミッド通り)と呼ばれる広い直線道路が通じている。ギザ広場にはカイロ地下鉄が通じており、ピラミッドへ向かう場合はここからバスに乗るか、またはカイロ市中心部からも市内バスが走っている。ピラミッド自体は砂漠のなかにあり周囲にはなにもないが、カイロ市の都市化に伴いスフィンクスのすぐ東隣まで住宅街が広がるようになった。スフィンクスの正面にはケンタッキー・フライド・チキンとピザハットの支店があり、スフィンクスとピラミッドを眺めることができる[1]。
この3基のピラミッドおよびその複合体は、現代ではピラミッドエリアとして一括され、保存地区となっている。ピラミッドエリアはエジプト最大の観光地であり、世界中から多くの観光客が訪れる。エリアの入り口はクフ王のピラミッド北側(アフラーム通り終点近く)と、スフィンクス前の2か所に存在する。ピラミッドエリアの西端には展望台が存在し、ここから3基のピラミッドすべてを一度に眺めることができる。
2013年8月に発生したムスリム同胞団と治安部隊との衝突を受け、エジプト考古省は2013年8月14日から一時閉鎖措置をとっている[2]が、のちに解除された。
俗説[編集]
この三大ピラミッドはオリオン座の三ツ星を表したものであるとする、いわゆるオリオン説が存在する。実際に、ナイル川を天の川に見立てると三大ピラミッドの位置がオリオン座の三ツ星の位置とほぼ重なり、さらに三ツ星と三大ピラミッドを重ねるとその配置が一致するという。ロバート・ボーヴァル(Robert Bauval)とアドリアン・ギルバート(Adrian Gilbert)が提唱したものだが、古代エジプトにおけるオリオン座の重要性から結果としてオリオンの三つ星として見られたとは考えられるものの、ピラミッドの大きさの並び順と三つ星の光の強さが一致しないことなどから、三つ星に似せようとしてピラミッドを作ったことに関しては否定的見解が強い。またグラハム・ハンコックもこの説を取りいれたが、こちらも学会では無視されている。
エピソード[編集]

スフィンクスと侍(横浜鎖港談判使節団、1865年)
ナポレオン・ボナパルトがエジプトに遠征した折、ピラミッドの下で「兵士諸君、ピラミッドの頂から、四千年の歴史が諸君を見つめている」と言って兵士達を鼓舞したとされる。
このピラミッド群はエジプトのシンボルとなっており、19世紀以降多くの観光客を集めるようになった。1865年には池田長発率いる江戸幕府の第二回遣欧使節(横浜鎖港談判使節団)がピラミッドを見学し、記念撮影を行っている。
関連項目[編集]
ウィキメディア・コモンズには、三大ピラミッドに関連するメディアがあります。
カイロ
ギーザ
ギザの大スフィンクス
世界三大一覧
脚注[編集]
^ 「地球の歩き方 エジプト 2005年-2006年版」2004年11月12日改訂第14版第1刷発行(ダイヤモンド・ビッグ社)p153
^ “エジプト:ピラミッドも一時閉鎖 衝突拡大で”. 毎日新聞. (2013年8月15日) 2013年8月20日閲覧。
[表示]
表 話 編 歴
ギザ台地の遺構群
[表示]
表 話 編 歴
メンフィスとその墓地遺跡 - ギザからダハシュールまでのピラミッド地帯(時代順)
吉萨,虚拟旅游的金字塔
カテゴリ: エジプトのピラミッド世界遺産 さ行名数3ギーザ
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最終更新 2017年1月31日 (火) 13:36 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
テキストはギーザ
ギーザ
الجيزة
ⲅⲓⲍⲁ

ギーザの三大ピラミッド


ギーザの位置(エジプト内) ギーザギーザ
座標: 北緯30度01分 東経31度13分
国 エジプトの旗 エジプト
県 ギーザ県
標高 19m (62ft)
人口 (2012)
- 計 3,628,062人
等時帯 EST (UTC+2)
市外局番 (+20) 2
ウェブサイト www.giza.gov.eg
ギーザ (アラビア語: الجيزة‎ (al-Jīza), アラビア語エジプト方言:eg-Gīza, 英語: Giza/Gizeh)は、エジプトの都市。ナイル川中流の西岸に位置する。同国の首都であるカイロからみてナイル川を挟んでおよそ20km西南にあり、現在では拡大したカイロの都市圏に内包されているが、行政上はカイロから独立したギーザ県の県都である。人口はおよそ200万人。日本語表記はギザ、ギゼーなどとも。
古代エジプト以来の町であり、クフ王のピラミッドをはじめとするギザの三大ピラミッドと、ギザの大スフィンクスがある遺跡の町として世界的に有名である。その一帯からダハシュールにかけてのピラミッド地帯は、1979年に「メンフィスとその墓地遺跡」として世界遺産に登録された。
目次 [非表示]
1 歴史
2 インフラ
2.1 交通
3 気候
4 教育
5 姉妹都市
6 関連項目
7 出典
8 外部リンク
歴史[編集]

カフラー王のピラミッドとスフィンクス
ギーザの台地がエジプトの人々によって着目されたのはきわめて古く、エジプト第四王朝の諸王によって三大ピラミッドや寺院群が築かれた。
7世紀にエジプトを征服したアラブ人が現在のカイロの地にエジプトの首都を置いて以来、ギーザは首都近郊の都市として歴史に登場する。エジプトの外港であるアレクサンドリアから陸路でカイロに向かうとナイル川の西岸を進むことになり、交通路はギーザからナイル川の中洲を経てカイロに至った。このため時代によってはギーザからカイロにかけてはナイル川を渡る石橋がかけられるほど緊密に結ばれ、首都近郊の都市として有力者の邸宅が置かれることもたびたびであった。軍事的にもギーザはカイロを巡る戦争における重要な拠点であり、10世紀のファーティマ朝や18世紀末のナポレオンなどナイル川の西岸からカイロに迫った勢力は、まずギーザを制圧してからカイロを征服している。
19世紀のムハンマド・アリー朝期にはギーザのピラミッドとスフィンクスがヨーロッパからやってくる外国人が必ず訪れる名所となり、カイロとギーザを結ぶ近代的な大通りも建設された。20世紀にはカイロの都市化とともにギーザはその郊外地区としてカイロにいっそう結びつき、人口が爆発的に増大した。またギーザのピラミッド地区は観光地化され、エジプトを代表する観光地として世界中から観光客を集めている。
インフラ[編集]
交通[編集]
ギーザの交通機関には、広範囲な道路網、鉄道網、地下鉄網及び航路が含まれる。道路交通には、自家用車、タクシー、私営公共バスやマイクロバスによって促進されている。
ギーザはカイロと、公式に「メトロ (مترو)」と呼ばれる地下鉄システムを共有しており、短時間で効率的に移動することができる。道路網は、10月6日市やカイロなどの都市とギーザを結んでいる。ギーザには、高速道路や5月15日橋のような橋がある。ギーザは、交通量が多く、混雑することで知られている。
カイロ・タクシー
カイロ地下鉄
カイロ・イエローキャブ
カイロ・ナイル・フェリー

背景にカフラー王のピラミッドがあるギーザの道路
気候[編集]
ギーザは、砂漠気候(ケッペン:BWh)であるが、しばしばナイル川の谷の影響により湿度が高くなる。暴風は、3月から4月にかけて市内で頻繁に起こるサハラ砂漠の砂嵐になり得る。冬でも、気温は12 °C (54 °F)から17 °C (63 °F)と高いが、夜間は最低気温がときどき、7 °C (45 °F)から5°Cまで下がる。気温の最低記録は、0.8 °C (33 °F)である。夏でも、最高気温はめったに40 °C (104 °F)を超えず、最低気温は20 °C (68 °F)まで下がる。降水は珍しいが、にわか雨は川の増水を引き起こす。また、あられやみぞれも起こる場合がある。
[隠す]ギーザの気候
月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年
平均最高気温 °C (°F) 17
(63) 19
(67) 23
(73) 28
(82) 32
(90) 35
(95) 36
(96) 36
(96) 32
(90) 29
(85) 26
(79) 21
(69) 27.8
(82.1)
平均最低気温 °C (°F) 9
(48) 9
(48) 11
(51) 13
(56) 18
(64) 21
(69) 22
(71) 22
(72) 21
(70) 18
(64) 15
(59) 11
(51) 15.8
(60.3)
降水量 mm (inch) 3
(0.1) 3
(0.1) 3
(0.1) 0
(0) 13
(0.5) 0
(0) 0
(0) 0
(0) 0
(0) 0
(0) 3
(0.1) 13
(0.5) 38
(1.4)
出典: Weatherbase [1]
教育[編集]
ギーザの教育機関には、1924年にギーザへ移転したカイロ大学が含まれる。この都市は、エジプトだけではなく、地中海地域全体の教育の中心地である。ギーザには、多数の高等学校、幼稚園、研究所が存在する。
姉妹都市[編集]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国、ロサンゼルス
スウェーデンの旗 スウェーデン、ストックホルム、リンケビュー(英語版)
ブルネイの旗 ブルネイ、バンダルスリブガワン(2011年8月2日より)
関連項目[編集]
ギーザ県
三大ピラミッド
ギザの大スフィンクス
エジプトのピラミッドの一覧(英語版)
巨石のある地域の一覧(英語版)
出典[編集]
[ヘルプ]
^ “Weatherbase: Historical Weather for Giza, Egypt”. Weatherbase (2011年). 2013年3月4日閲覧。 Retrieved on November 24, 2011.
外部リンク[編集]
ウィキメディア・コモンズには、ギーザに関連するメディアおよびカテゴリがあります。
Giza Archives Project
University of Pennsylvania Museum excavations at Giza
座標: 北緯30度01分 東経31度13分
[表示]
表 話 編 歴
エジプトの旗 エジプトの人口上位都市
[表示]
表 話 編 歴
ギザ台地の遺構群
典拠管理
WorldCat VIAF: 246507214 LCCN: n80146419 GND: 4021093-5
カテゴリ: ギーザエジプトの都市ギーザ県エジプトの県都古代エジプト
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最終更新 2017年8月26日 (土) 01:04 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
テキストはクリエイティブ・コモ

大林組は1978年に、現代の技術ならmクフ王の大ピラミッドをどのように建設するかについて研究する企画を実行した[5]。それによれば総工費1250億円、工期5年、最盛期の従業者人数3500人といエジプトのピラミッド
ギザの大ピラミッド
(クフ王のピラミッドから転送)
曖昧さ回避 この項目では、最大のピラミッドについて説明しています。ピラミッド群については「三大ピラミッド」をご覧ください。
座標: 北緯29度58分45.03秒 東経31度08分03.69秒

ギザの大ピラミッド
ギザの大ピラミッド(ギザのだいピラミッド、英語: Great Pyramid of Giza)は、エジプトのギザに建設された、世界の七不思議で唯一現存する建造物である。紀元前5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスの『歴史』において、「クフ王のピラミッド」として報告されているが、この時点で建設から2000年以上経過していた。
「ケオプス(クフ)王は50年間統治したと言われている。ケオプス王が崩御した後、兄弟のケフラン(カフラー)が王となった。ケフランもピラミッドを造った。それはケオプスのピラミッドよりも12メートルほど低かった。だがそれ以外は同じような大きさのピラミッドだった。ケフラン王は56年間国を統治した。その後はケオプス王の息子ミケリノス(メンカウラー)が王位を継承した。ミケリノス王は父親よりも小さなピラミッドを残した。」
建築年代については諸説あり、一般的にエジプト第4王朝のファラオ、クフ王の墳墓として紀元前2560年頃に20年前後かけて建築されたと考えられている。
なお、19世紀のフランス人考古学者オーギュスト・マリエットによってギザで発見され、現在カイロ博物館にあるインベントリー石碑には、「ピラミッドは『ピラミッドの女王』女神イシスに捧げられたものであり、スフィンクスも大ピラミッドも、クフ王が王位につくはるか昔から存在していたのであり、またクフ王の墓は東側の脇にある3つの補助的建造物の一つがそれである」と書かれている(他の幾つかの遺跡も同じ)。
完成時の高さ146.6mは、14世紀にリンカン大聖堂が完成するまで世界で最も高い建造物であった。
目次 [非表示]
1 ギザの大ピラミッドに至るまでの沿革
2 ギザの大ピラミッド
3 シャフト
4 建設法
4.1 直線傾斜路説
4.2 らせん傾斜路説
4.3 内部通路説
5 関連項目
6 参考文献・脚注
ギザの大ピラミッドに至るまでの沿革[ソースを編集]

三大ピラミッド (最後方がギザの大ピラミッド)
一般に、ピラミッドの出現は、ファラオ(王)を頂点とした中央集権国家が確立したことを示している。したがってピラミッドの建造が盛んなことは、エジプト中央集権国家としても盛期であったと言える。
ギザの三大ピラミッド(ギザの大ピラミッド〈クフ王のピラミッド〉、カフラー王のピラミッド、メンカウラー王のピラミッド)が建造された時代は「エジプト古王国時代(第3-第6王朝)」であり、この時代のピラミッドは、規模・技術ともに最高水準を示すことから、当時のことは、別名で「ピラミッド時代」ともいわれる。なお、このピラミッド及びクフ王について説明したヘロドトスはこれより2000年ほど後の時代のためであることや様々な理由から、現在ではクフ王の王墓とする説に疑問が呈されることも多い[1]。
なお、ピラミッドの語源は諸説あって確定できない。語源の最も有力な説はギリシア語で三角形のパンを指すピューラミス(πυραμίς pyramis ピラミス、ピラムスとも)に由来する、という説である。古代エジプト語名は「メル(mer/mr)」で、「昇る」という意味。ミル、ムルとも発音し、ヒエログリフでは三角形の下に、地上を表す長方形が付いたもので表記した(下記)。
O24
ギザの大ピラミッド[ソースを編集]

クフ王のピラミッド断面図
1.入口 2.盗掘孔 3.上昇通路入口 4.下降通路 5.未完の地下室 6.上昇通路 7.女王の間 8.水平通路 9.大回廊 10.王の間 11.控えの間 12.脱出孔
クフ王が建設したギザの大ピラミッドは、ピラミッド建築の頂点とされ、最大規模を誇る。
現在高さ138.74m(もとの高さ146.59m)、底辺230.37m、勾配51度50分40、容積約235.2万m3で、平均2.5tの石灰岩を約270万-280万個積み上げたと計算される。
長さと高さの比は黄金比であるとする俗説があるが、実際に計算すると黄金比との相対誤算は3パーセント強であり、方位の誤算で1分程度に収まるピラミッドの建築技術に比して際立って大きい。
14世紀にリンカン大聖堂の中央塔が建てられるまで世界で最も高い建築物であった。
こうした規模とともに石積技術も最高水準にある。例えば、底辺の長さの誤差は20cm、方位の誤差は1分57秒-5分30秒という正確さである。
王の間上部には、重量軽減の間と呼ばれる空間があり、19世紀にイギリスの軍人ハワード・ヴァイスが発破によって発見した。最上部にはクフ王の名前(字が間違っている)が残されている。
シャフト[ソースを編集]
王の間と女王の間にはそれぞれ通気孔が存在する。これは「シャフト」の名で呼ばれ、部屋の温度を一定に保つためのものと考えられているが、女王の間から伸びるものだけは通気孔と見るには両端が塞がっており、また構造的にもピラミッド内を右往左往するなど妙な面が目立っていた。女王の間の通気孔とされているこの穴は何故か薄い壁で巧妙に封鎖して隠されており、これは1872年にフリーメーソン会員ウェインマン・ディクソンが発見するまで存在すら知られていなかった。
さらに1993年にルドルフ・ガンテンブリングによって行われたロボット、「ウプワウト (UPWAUT)」によるシャフト調査で、女王の間から伸びているこの小さな通路だけは外部へ通じていないばかりかピラミッド内の回廊を避けて設計されており、独立した通路として別に長々と蛇行していたことが明らかになった。さらに通路入口より60mほど先に青銅の取っ手が取り付けられた厚さ6cmほどの石灰岩の扉で閉じられた部屋があることがここで判明している。その後の調査で、扉にドリルで小さな穴をあけ、そこにファイバースコープを差し込み調査の結果、扉の向こう側にひびの入った壁が確認された。エジプト考古学庁長官ザヒ・ハワス博士は、この空間がクフ王の玄室に繋がっている可能性が高いと考えている。
さらに王の間のシャフトはオシリスを表すオリオン座の3つ星を、女王の間のシャフトはイシスを表すシリウスの方向を示している。これは古代エジプト人のオシリス信仰によるものであるとされている。
建設法[ソースを編集]
ギザの大ピラミッドに使用された石灰岩は、ピラミッドの500メートル手前の石切り場由来とされる。すぐ近くに建設に関わった人々の街も築かれた。ナイル川の氾濫する7-9月に仕事を失った農民が集められて建設に動員され、4000人の作業員が建築に関わったとされる。以前は奴隷がピラミッドを作ったとされていたが、街には二万人以上が生活した痕跡があり、作業員は家族とともに暮らし、報酬やパン、ビールも与えられていた。切り出された石灰岩は平均2.5t程度の重量があり、300万個が使用された。これとは別に1個60tを超える花崗岩の石材が王の間に多数使用されている。建設法としては3つの説が提唱されている。
直線傾斜路説[ソースを編集]
ピラミッドまで緩い斜面をもつ1本の直線の通路を作り、ソリで石材を引き揚げて建築する方法。斜ピラミッドが高くなるにつれて通路も長くなり、最終的にピラミッドと同じ容積の材料が通路を作るために必要となる欠点が指摘されている。一方、ピラミッドは高い部分になるにつれ必要な石材の量は減るので、建設が進行すればするほどピラミッドより通路の設置のほうが大変になることになる。斜面の傾斜を5度とするとピラミッドの頂上を作るときには長さ1.6kmの傾斜通路が必要となり、石切り場からピラミッドから逆の方向に1km運んでから直線傾斜通路に乗せることになる。またピラミッドが完成した後に、ピラミッドと同じ体積の石材をつかって作った通路を撤去する必要がある。
らせん傾斜路説[ソースを編集]
ピラミッドの外周に沿って、らせん状の細い傾斜通路を設けたという説。細い通路しか使用できず、通路自体によってピラミッドが隠されてしまい、建築中の測量が出来ずに稜線が曲がってしまう危険が指摘されている。
内部通路説[ソースを編集]
フランスの建築家が提唱した説。元々は同じ建築家だった父親が、ピラミッドの中にらせん状の通路があるはずだという発想から始まっている[2]。この説を受けて現地の調査でも内部通路がふさがれた跡が見つかったり、1986-1987年のフランスのピラミッドの重力分析によって内部に15%のらせん状の空洞の存在が示唆されていたことが改めて着目されるなど、注目を浴びている説[2]。内部の通路の傾斜は4度、総延長は1.6kmで内部の比較的浅い場所を4-5周まわって頂上近くにまで至っていると予想されている。下1/3の建築には直線傾斜路が使用されたとされる。これは前述の60tの花崗岩などを運ぶ必要があるため、内部トンネルだけでは建築できないためである[2]。この時に大回廊にはバラストと搭載したソリが設置され、エレベーターの原理で石材の引き上げがおこなれていた[2]。用が済んだ直線傾斜路は解体され、その石材はピラミッドの建設に転用された[2]。崩壊したアブグラブ神殿でも同様の内部トンネルが確かに存在したことが確認されている[2]。
関連項目[ソースを編集]
ウィキメディア・コモンズには、ギザの大ピラミッドに関連するメディアおよびカテゴリがあります。
三大ピラミッド
カイロ
ギーザ
参考文献・脚注[ソースを編集]
ウィキメディア・コモンズには、ギザの大ピラミッドに関連するメディアおよびカテゴリがあります。
^ NEWSポストセブン2012年1月14日配信「ピラミッド 20年で完成と言われるが実際は数百年かかったか」
^ a b c d e f 「ハイビジョン特集 エジプト発掘 第1集 ピラミッドはこうして造られた」2009年7月18日 NHKアーガイブス 2016年2月7日閲覧
記録
先代:
赤いピラミッド 世界一高い建造物
前2570年前後 — 1300年
146.6 m 次代:
リンカン大聖堂
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ギザ台地の遺構群
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世界の七不思議
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カテゴリ: エジプトの考古遺跡エジプトのピラミッド世界の七不思議世界記録ギーザ紀元前3千年紀の建築物エジプト第4王朝
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テキストは
南の大地から見たギーザのピラミッド。右からクフ王、カフラー王、メンカウラー王のもの。手前の小さな3つのピラミッドはメンカウラー王の衛星ピラミッド

スフィンクスから見たカフラー王のピラミッド
エジプトのピラミッド(Egyptian pyramids)は、エジプトに位置する、角錐の形をした古代のピラミッドである。2008年時点で138基が発見されている[1][2]。そのほとんどは、エジプト古王国からエジプト中王国時代のファラオかその家族の墓である[3][4] [5]。
エジプトのピラミッドのうち最も古いものは、ジェゼル王のピラミッドで、エジプト第3王朝の時代に作られた。このピラミッドと周囲の建造物はイムホテプによってデザインされ、化粧石で造られた世界で最も古いモニュメントだと考えられている。
エジプトのピラミッドで最もよく知られているのは、カイロ郊外にあるギーザのピラミッドである。ギーザのピラミッドのいくつかは、歴史上最も大きな建築物だと考えられている[6]。
ギザにあるクフ王のピラミッドは、エジプトのピラミッドで最も大きなものであり、世界の七不思議の一つに数えられている。
目次 [非表示]
1 歴史的な発展
2 ピラミッドのシンボル
3 三大ピラミッド
4 ピラミッドの数と場所
4.1 アブ・ラワシュ
4.2 ギーザ
4.3 ザウィト・エル・ アリアン
4.4 アブ・シール
4.5 サッカラ
4.6 ダハシュール
4.7 マズグハナ
4.8 リシュト
4.9 メイドゥーム
4.10 ハワーラ
4.11 エル・ラフーン
4.12 建設時期
5 関連項目
6 出典
7 参考文献
8 外部リンク
歴史的な発展[編集]

サッカラにあるファラオのマスタバ
エジプトの王朝の初期の時代から、マスタバとして知られるベンチ状の構造物は大きな意味を持っていた[7][8]。
文献上最初のエジプトのピラミッドはイムホテプにより作られたものであり、それはジェセルのために計画されたと考えられている。マスタバの上部同士を積み重ね、頂上まで何段にもなる大構造物にすることを最初に考えたのはイムホテプだと言われている。それを実現したものがジェセルの階段ピラミッドであり、死んだファラオの魂が階段を登って天国に行けるようになっている。これこそが後のエジプト人にイムホテプを神聖視させた重要な業績であった[9]。
ピラミッドが最も多く作られた時代は、ファラオの権威が絶対的であった時代と一致する。ギザのピラミッドの近くにある多くの有名なピラミッドができたのもこの時代である。時とともに権威は分散し、ピラミッドの建設に必要な資源や熱意は失われていき、ピラミッドは小さくみすぼらしくなっていった。
ピラミッド建設時代が終息してからもその影響は周辺諸国にも及んだ。特に現在のスーダンにいたヌビア人にその影響は著しい(ヌビアのピラミッド)。ヌビア人たちは北進してエジプトを支配し、第25王朝を成立させたが、その後アッシリアに追われて南遷(クシュ王国)、その都ナパタ(英語版)や近隣のゲベル・バルカルに多くのピラミッドを建造した。紀元前661年にナパタを都とする時代が終わり、紀元前300年から300年頃のメロエを都とする時代になると、ピラミッド再建の機運が再び高まり、200以上のピラミッドが作られた。
ピラミッドのシンボル[編集]

ピラミッドの内部構造の図示
エジプトのピラミッドの形は、ベンベンを模していると考えられ、エジプト人は地球はここから創られたと考えていた。またこの形は太陽の光線を表しているとも考えられている。多くのピラミッドの表面は磨かれて反射率の高い石灰岩でできており、遠くから見た時に輝いて見える。
ピラミッドは死者のモニュメントだと一般的に考えられているが、特定の神学的原則からこの説に反対し続けている者もいる。ある説では、ピラミッドは一種の甦りのマシーンとしてデザインされたというものもある[10]。
エジプト人は、夜空で星が周りを回っている暗い部分は、天国への物理的な玄関だと考えていた。メインの墓室から伸びる軸の1つはピラミッドの中を抜けて、空のこの方向を向いている。このことは、ピラミッドはファラオの魂を神に届ける呪術的な装置であったことを示唆している。
エジプトのピラミッドは、全てナイル川の西岸に作られている。これは、エジプトの神話で日の沈む場所は死者の領域だったからである[11]。
三大ピラミッド[編集]
詳細は「三大ピラミッド」を参照
三大ピラミッドとは、エジプト、ギザの砂漠にある3基のピラミッドの総称。
クフ王のピラミッド
カフラー王のピラミッド
メンカウラー王のピラミッド
ピラミッドの数と場所[編集]
1842年、ドイツの考古学者カール・レプシウスは最初のピラミッドのリストを作り、67件を掲載した。それ以降も多数のピラミッドが発見され、2008年11月現在では118を数える[3]。
レプシウスが「首なしピラミッド」と呼んだ29番目のピラミッドの位置は、レプシウスの調査後に砂漠の砂に埋まってしまい、2度に渡って分からなくなったが、2008年に行われた発掘調査で再発見された[12]。
多くのピラミッドは保存状態が悪かったり、砂に埋まってしまっている。もし見えていたとしても、がれきの山にしか見えないものも多い。
直近に見つかったピラミッドは、エジプト第6王朝のファラオテティの母シェシェティのもので、サッカラにあった。エジプト考古最高評議会の長ザヒ・ハワスによって2008年11月11日に発表された[4][13]。
ザウィト・エル・ マイティンにある第3王朝期の小規模のものを除くエジプトの全てのピラミッドは、ナイル川の西岸に作られていて、そのほとんどがいくつかのグループを作っている。
アブ・ラワシュ[編集]

かなり破壊されたジェドエフラーのピラミッド
アブ・ラワシュには、エジプトの最北端のピラミッドである、ジェドエフラーのピラミッドが存在する[5]。従来このピラミッドは未完成であったと考えられてきたが、近年、完成していただけではなく、メンカウラー王のピラミッドと同じ高さであったということが考古学界の定説となっている。
この場所は大きな交差路に隣接しており、石の供給が容易であった。小さな衛星ピラミッドには、保存状態のよいものが多い。
ギーザ[編集]

ギーザのピラミッドの位置関係
ギーザには、クフ王のピラミッド、カフラー王のピラミッド、メンカウラー王のピラミッドの三大ピラミッドや「女王のピラミッド」と呼ばれる小さな衛星ピラミッド、スフィンクス等が存在する。
3つの中で、カフラー王のピラミッドだけが頂上付近に建設当時の石灰岩を残している。このピラミッドは、高い場所に建っており、しかも急勾配であるため、隣接するクフ王のピラミッドよりも見た目には大きく見える。
三大ピラミッドは、古代より人気の観光スポットであり、シドンのアンティパトロスによって世界七不思議に挙げられ有名になった。今日では、七不思議のうち現存する唯一のものである。
なお、2013年8月に発生したムスリム同胞団と治安部隊との衝突を受け、エジプト考古省は2013年8月14日から一時閉鎖措置をとっている[14]。
ザウィト・エル・ アリアン[編集]
ザウィト・エル・ アリアンは、ギーザとアブ・シールの中間にあり、古王国時代の2つの未完成ピラミッドがある。北方のピラミッドはサナクト王、南方のピラミッドはカーバー王のものと考えられている。カーバーのファラオとしての4年間の在任期間中にピラミッドの建設が打ち切られたと考えられている。高さは約20mであるが、完成すれば40m程度になったと推測される。
アブ・シール[編集]

サフラーのピラミッド
この地には、エジプト第5王朝の14個のピラミッドがある。アブ・シールのピラミッドの建築の質は、エジプト第4王朝のものよりも低い。これはファラオの権力が低下したか経済の活力が低減したのが原因かもしれない。
有名なものとしては、最も保存状態のよいニウセルラーの他、ネフェルイルカラー、サフラーのものがある。また、ネフェルエフラーの未完成のピラミッドもある。アブ・シールの主要なピラミッドは全て階段ピラミッドとして建てられたが、その大半は後に階段部分が埋められて角錐のピラミッドになったと考えられている。
サッカラ[編集]

ジェセルの階段ピラミッド
サッカラの有名なピラミッドには、世界最古の石造建築物であるジェセルの階段ピラミッドがある。その他にもウセルカフやテティ、エジプトで最も保存状態がよいものの一つウナスのピラミッドがある。このピラミッドは、ラムセス2世の息子による最初の復元の対象の一つにもなった。サッカラにはセケムケトの未完成の階段ピラミッドもあり、「埋蔵ピラミッド」として知られている。考古学者は、このピラミッドが完成していたらジェセルのもの以上の規模になったと推測している。
サッカラの主要なピラミッド群の南方には、後の時代の小さなピラミッドの群があり、ペピ1世やペピ2世のピラミッドがある。その多くは保存状態が悪い。
第4王朝のファラオシェプスセスカーフは、ピラミッドの建設に対する興味も能力も持たなかった。サッカラ南部にある彼の墓は大きなマスタバで寺院が付属し、「ファラオのマスタバ」として知られている[15]。
2008年末にサッカラ北部で埋葬者不明のピラミッドが発見された。テティの母の墓だと考えられている。約5mの高さだが、建設当時は14m程度あったと考えられている。墓の開封は2008年12月に行われた。
ダハシュール[編集]

スネフェルの赤いピラミッド
ダハシュールは、ギーザとサッカラに次いで重要な場所であるが、軍事基地があったため1996年まで立ち入ることができなかった。そのため、考古学者による調査が比較的進んでいない。
スネフェルのピラミッドは屈折ピラミッドとして知られ、建設者が意図して角を滑らかに作った最初のピラミッドだと考えられている。
屈折ピラミッドから北に数kmの場所には、スネフェルの時代に作られた3つのピラミッドが残っている。そのうちの1つ赤いピラミッドは全ての角が完全に滑らかな最初のピラミッドであり、ギーザのクフ王のピラミッド、カフラー王のピラミッドに次いで、エジプトで3番目に大きい。
そのほかダハシュールには、アメンエムハト3世の黒いピラミッドや多くの小規模ピラミッドがある。
マズグハナ[編集]
ダハシュールの南にあるマズグハナには、エジプト第一中間期のファラオが建てたピラミッドがある。
リシュト[編集]

アメンエムハト1世のピラミッド
リシュトには、アメンエムハト1世とその息子センウセレト1世による2つの主要なピラミッドが知られている。後者は10個の小規模なピラミッドの廃墟に囲まれており、そのうちの1つはアメンエムハトの従兄弟であるカーバー2世のものであることが分かっている[16]。この場所はファイユームオアシスに近く、ダハシュールとメイドゥームの中間、カイロの約100km南方にある。また、エジプト第12王朝の首都で現在は正確な位置が分からないイタチウイにも近かったと考えられている。
メイドゥーム[編集]

メイドゥームのピラミッド
メイドゥームのピラミッドは、スネフェルの治世下で作られた3つのピラミッドのうちの1つで、父親のフニによって始められたと考えられている。しかし、この説は確実ではなく、この場所からフニの名を記したものは何も見つかっていない。
このピラミッドは当初階段ピラミッドとして建設され、後に段が埋められて滑らかなものに作り替えられた。
このピラミッドは、古代から中世にかけて幾度も破壊の危機に晒された。中世のアラブ人は、7段あったと記しているが、今日では上の3段しか残っていない。
ハワーラ[編集]

アメンエムハト3世のピラミッド
アメンエムハト3世は、第12王朝で強い権力を持った最後のファラオであり、ファイユーム近くのハワーラにハワーラのピラミッドを建てた。
エル・ラフーン[編集]

センウセレト2世のピラミッド
エル・ラフーンにあるセンウセレト2世のピラミッドはエジプト最南端のピラミッドである。12mの高さの天然の石灰岩を基礎に用いることによって、建設に必要な労働が大幅に抑えられている。
建設時期[編集]
下記の表は、エジプトの主要なピラミッドを建設年代順に並べたものである。それぞれのピラミッドは建設を発注したファラオの名前で表され、おおよその年代と場所が記されている。
ピラミッド/ファラオ 統治期間 場所
ジェセル c. 2630 - 2612 BC サッカラ
スネフェル c. 2612 - 2589 BC ダハシュール
スネフェル c. 2612 - 2589 BC ダハシュール
スネフェル c. 2612 - 2589 BC メイドゥーム
クフ c. 2589 - 2566 BC ギーザ
ジェドエフラー c. 2566 - 2558 BC アブ・ラワシュ
カフラー c. 2558 - 2532 BC ギーザ
メンカウラー c. 2532 - 2504 BC ギーザ
サフラー c. 2487 - 2477 BC アブ・シール
ネフェルイルカラー c. 2477 - 2467 BC アブ・シール
ニウセルラー c. 2416 - 2392 BC アブ・シール
アメンエムハト1世 c. 1991 - 1962 BC リシュト
センウセレト1世 c. 1971 - 1926 BC リシュト
センウセレト2世 c. 1897 - 1878 BC エル・ラーフン
アメンエムハト3世 c. 1860 - 1814 BC ハワーラ
関連項目[編集]
ピラミッド
カイロ
スフィンクス
ギーザ
ジッグラト
救済土木事業
出典[編集]
ウィキメディア・コモンズには、エジプトのピラミッドに関連するカテゴリがあります。
^ “In the Shadow of a Long Past, Patiently Awaiting the Future”
^ “Mark Lehner (2008). The Complete Pyramids: Solving the Ancient Mysteries. p. 34.”. Thames & Hudson. 2009年10月5日閲覧。
^ a b “Egypt says has found pyramid built for ancient queen”. Reuters 2008年11月18日閲覧. "The pyramid, which Hawass said was the 118th found in Egypt, was uncovered near the world's oldest pyramid at Saqqara, a burial ground for the rulers of ancient Egypt."
^ a b “In the Shadow of a Long Past, Patiently Awaiting the Future”. New York Times. (2008年11月16日) 2008年11月17日閲覧. "Deep below the Egyptian desert, archaeologists have found evidence of yet another pyramid, this one constructed 4,300 years ago to store the remains of a pharaoh’s mother. That makes 138 pyramids discovered here so far, and officials say they expect to find more."
^ a b Michael Ritter (2003) [1] Dating the Pyramids. Retrieved 13 April 2005
^ Watkin, David (4th ed. 2005). A History of Western Architecture. Laurence King Publishing. pp. 14. ISBN 978-1856694599."The Great Pyramid...is still one of the largest structures ever raised by man, its plan twice the size of St. Peter's in Rome"
^ [2] Burial customs: mastabas. University College London (2001) Retrieved 14 April 2005
^ [3] Burial customs in Early Dynastic Egypt. University College London (2001). Retrieved 14 April 2005
^ [4] Imhotep, Doctor, Architect, High Priest, Scribe and Vizier to King Djoser (Jimmy Dunn). Retrieved 24 April 2005
^ [5] The Pyramids: "Resurrection Machines". (Houghton Mifflin College) Retrieved 13 April 2005
^ [6] Hidden History of Egypt (The Discovery Channel (2002-2004)) Retrieved 13 April 2005
^ [7]
^ http://news.nationalgeographic.com/news/2008/11/081111-new-pyramid-egypt.html
^ “エジプト:ピラミッドも一時閉鎖 衝突拡大で”. 毎日新聞. (2013年8月15日) 2013年8月20日閲覧。
^ [8] The Mastaba of Shepseskaf
^ Allen, James; Manuelian, Peter (2005), The Ancient Egyptian Pyramid Texts (Writings from the Ancient World, No. 23), Brill Academic, ISBN 978-9004137776
参考文献[編集]
I. E. S. Edwards, The Pyramids of Egypt Penguin Books Ltd; New Ed edition (5 Dec 1991), ISBN 978-0-14-013634-0
Mark Lehner, The Complete Pyramids, Thames & Hudson, 1997, ISBN 978-0-500-05084-2
Kurt Mendelssohn, The Riddle of the Pyramids, Thames & Hudson Ltd (6 May 1974), ISBN 978-0-500-05015-6
外部リンク[編集]
Newsweek's Interactive Graphic on Djedefre's pyramid with Interactive Timeline of the major pyramids of ancient Egypt
Ancient Authors – A site that quotes descriptions of the "Labyrinth" of Amenemhet III's pyramid at el-Lahun by various ancient authors.
ANCIENT EGYPT - History & Chronology – A site detailing the major pyramid sites of ancient Egypt and Nubia (Sudan).
Pyramids in relation with the Noble Quraan (Quran)
diagram of an ancient pyramid from bbc.co.uk
Pyramids World Heritage Site in panographies - 360 degree interactive imaging
The Pyramids of Egypt - The meaning and construction of the Egyptian pyramids by Egyptologist Professor Nabil Swelim.
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カテゴリ: エジプトのピラミッド古代エジプトの信仰
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最終更新 2016年11月3日 (木) 19:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
テキストはう数字が弾き出された。1立方m当たりの価格は、コンクリートダムが2万4000円前後に対してピラミッドは4万8000円になるという(金額は当時のもの)。なおこの試算に対して、1960年代アブ・シンベル神殿の移設に重機による5年かけて解体されたのは2200のブロック、それに対してピラミッドは200万個以上と現代でも可能なのかと疑問を呈されることもある[6]。
ヌビアのピラミッド[編集]

ヌビアのピラミッドの航空写真(メロエ)
詳細は「ヌビアのピラミッド」を参照
エジプトにおいて王のためのピラミッドが建設されなくなったのは紀元前16世紀であるが、それから800年ほどたった紀元前8世紀に、エジプト文化の影響を強く受けていた南のヌビアにおいてピラミッド建設が開始された。ヌビアのピラミッド建造開始は、ナパタに都をおくクシュ王国のピイ王がエジプトを征服しエジプト第25王朝を開いてからである[7]。ピイ王は王家の墓地のあったエル・クッルに小型のピラミッドを建造し、以後の第25王朝の諸王もこの地にピラミッドを建造した。これらのピラミッドは底辺が10mほどの小型のものであり、礼拝堂が併設され、中の玄室には遺体が安置された。すなわち、ヌビアのピラミッドは諸説あるエジプトのものとは違い、明確に墓として建造されていた[8]。紀元前656年に第25王朝のタハルカ王がアッシリアに敗れてエジプトを失陥しヌビアに撤退したのちも、ピラミッドの建造は続けられた。ただしタハルカはエル・クッルに代わり、その対岸にあるヌリにピラミッドを築いた[9]。紀元前591年ごろに首都がナパタからメロエへと遷都されると、ピラミッドはメロエにおいて建造されるようになった。このピラミッド建造は、メロエ王国が滅亡する紀元後4世紀まで、約1200年にわたりつづけられた。小型であり建設された期間も長かったことからこのピラミッド群は多数建造され、エジプトのピラミッドよりも多数のものが残されている[10]。このピラミッド群は21世紀に入っても発掘が続けられており、スーダンの貴重な観光名所の一つとなっている[11]。
中南米[編集]

ティカル1号神殿

ワシャクトゥンGroup Eの中心部にあるスタッコ人頭神殿

モチェ遺跡の「太陽のワカ」
メソアメリカ文明のピラミッド様建築は、陵墓・天文台として造られた物もあったが、基本的には神殿として建設・使用された。建設された時期は各文明によって異なるが、マヤ文明の場合はもっとも古く存在が確認されているピラミッドはセイバル遺跡のもので、紀元前1000年ごろには存在が確認されている[12]。その後ピラミッドはマヤ文明の各都市で相次いで建設されるようになり、紀元前400年以降の先古典期後期にはエル・ミラドール遺跡において高さ70mにも及ぶラ・ダンタ・ピラミッドが築かれた。このピラミッドはマヤ文明において建設された中で最も大きなものである。その後も各都市は盛衰を繰り返しながらピラミッドを建設し、古典期のティカルや後古典期のチチェン=イッツアなど、現在でも残っているものも多い。マヤ文明の場合、ピラミッドは古典期においてウィツ(山)と呼ばれていたように、ピラミッドはそのまま人工の山として認識されており、山岳信仰との関連が指摘されている[13]。
基本的には上部に神殿を持つため、四角錐ではなく上面が平らになっていて、神殿の土台としての性格が強い。単数ないし複数の辺から神殿に到る階段が存在するのが基本である。マヤ文明のものを例に挙げると、パレンケの「碑銘の神殿」、チチェン=イッツアの「カスティーヨ」、ティカル1号神殿などは9段の基壇を持ち、9層の冥界を表すと言われているが、全ての神殿の基壇数がそのような意味を持っているわけではない。新しいピラミッド神殿は、古いそれの上に礫・土を積み上げて石材で表面を覆い隠す形で建造されるのが常であり、発掘すると多層構造が明らかになる場合がある。2016年11月にはチチェン=イッツアで、2層のピラミッドの下に3層目のピラミッドが発見されたと報じられた[14][15]。また、エジプトのピラミッドと異なり、内部の空洞はあまりない。
マヤ文明の建造物15号と呼ばれているピラミッドでは、第1層の床を切って開けたところ、女王の墓が見つかったと「Antiquity」誌、2011年9月号で発表された。[要出典]マヤ文明において、女王が支配していたという事例は珍しい。理由は不明だが、遺体は頭部に容器で被せられており、同地域であるグアテマラにあるティカル遺跡でも同様の事例が見つかっている。上の層は1300年前に作られた墓になっており、2層目は約2000年ほど前に作られたことがわかっている。
建築様式は古典期以降、テオティワカン独特の水平垂直壁のタブレロとそれをのせた斜面壁のタルーが組み合わされたタルー・タブレロ様式の基壇を採用した神殿ピラミッドが各地に築かれた。
メソアメリカで天文台として使われていた神殿で有名なのは、ティカルの Mundo Perdido(「失われた世界」)グループとワシャクトゥンのグループEである。グループEについては、各種概説書でピラミッドE-VIIからピラミッドE-Iは、夏至の日の出の方向であり、ピラミッドE-IIは、春分・秋分の日の出の方向、E-IIIは、冬至の日の出の方向に当たると紹介されている。
アンデス文明のピラミッドで良く知られているのは、モチェ文化のモチェ谷にある「太陽のワカ」「月のワカ」と呼ばれる日干煉瓦で築かれた建物である。「太陽のワカ」は、かつては、長さ342m、幅159m、高さ40mあったと推定されているが、17世紀に盗掘者達が川の流路を変更して削り取ったために半分以上が失われている。一方「月のワカ」は長さ95m、幅85m、高さ20m程の規模である。最近発掘調査が行われ、壁画に盾や棍棒の擬人化した図像に加え、ジャガーらしいものも見られる。このような要素は「太陽のワカ」には見られず、宗教的・儀礼的な空間として機能していたと考えられる。またモチェV期(A.D.550〜700頃)には、パンパ・グランデ遺跡でワカ=フォルタレサというピラミッドが築かれ、高さ55mに達している。
また、ボリビアのチチカカ湖畔にあるティワナク遺跡中心部に、アカパナと呼ばれるピラミッドがあり、中心部からやや離れた場所にプマ・プンクと呼ばれる低い基壇状のピラミッド状建築物がある。
その他[編集]
メソポタミア文明において神殿に付随して建設されたジッグラトも、日干し煉瓦を階段状に積み上げていったものであり、階段ピラミッドに含まれるものである。また、スペイン領カナリア諸島のテネリフェ島にあるグイマー村付近にも石を積み上げた階段状の建造物が存在しており、グイマーのピラミッドと呼ばれているが、これがいつごろ何のために建造されたかについては判明していない。
イタリア[編集]

ローマのガイウス・ケスティウスのピラミッド
ガイウス・ケスティウスのピラミッド
このピラミッドは、紀元前18年から12年の間に建造されたもので、古代ローマの執政官、法務官を務めていたガイウス・ケスティウス・エプロの墓である。外観は、本場エジプトのピラミッドよりも急勾配でヌビアのピラミッドに近い。外部は、白色の大理石により化粧が施されている。
ボスニア[編集]
詳細は「en:Bosnian pyramids」および「ボスニアのピラミッド説」を参照
ボスニアのヴィソコにはヨーロッパ初のピラミッドなどとされる山[16]があるが、ただの山であるとも言われる[17]
現代のピラミッド[編集]

ルーヴル美術館メイン・エントランスのルーヴル・ピラミッド。
ピラミッドは非常に特徴的な外観をしており、これを模した、あるいはヒントを得た現代の建造物は世界中に多数存在する。最も著名なもののひとつはフランスのルーヴル美術館の中庭に1989年に完成したガラス製のピラミッド[18]、いわゆるルーヴル・ピラミッドである。
俗信・数奇伝説など[編集]
巨大にして精緻な建造物であるピラミッドには、さまざまな風聞が付きまとった。
ピラミッドパワー[編集]
ピラミッド形の物体には不思議な力が宿るとする迷信がある。ピラミッドパワーを参照のこと。
「日本にもピラミッドがある」説[編集]
日本の、自然の山と思われているものの中には、人工的に作られたピラミッド様建築物が存在しているという説がある。酒井勝軍らが『太古日本のピラミッド[19]』(国教宣明団)などで主張していた。例として葦嶽山など。
超文明説[編集]
現代の土木機械を大量に投入してもなお多大な労力を要するものを、20〜30年で古代人ができたはずがなく、ゆえにピラミッドは古代宇宙飛行士説による宇宙人や超古代文明によって作られた、とする説が提唱されることがある。反論として、ピラミッド建設に携わったとされる作業員の人数が20万人という桁違いのものであり、徹底した分業体制が敷かれていたという点が挙げられる(これは発掘調査から明らかである)。
一方で、その建造方法の詳細はいまだに明らかになっておらず、例えばギザのピラミッドでは200万個もの石が「春分と秋分の日のみ、8面体にピラミッドが見える」「ピラミッドの底面積で、四面の面積を割ると黄金率が出てくる」「底辺の1/2で高さを割ると黄金率の平方根が出てくる」(この指摘から以下のことが導かれる。底辺の長さをa、黄金率をφとすると、底辺の中点Aから底面の中心点Bはa/2、底面の中心点Bから頭頂点Cは√φa/2、頭頂点Cから底辺の中点Aはφa/2。つまり、AB:BC:CA=1:√φ:φ)「高さで2辺の和を割ると円周率が出てくる」という現代でもあり得ないほどの精密さで建造されている[20]。
大西洋を挟んでピラミッドが建設されたことにより、両文明の交流の可能性が主張されることもある。特に有名なのはトール・ヘイエルダールであり、彼は自説を証明するために古代エジプトの葦船を復元して大西洋横断を行った。しかしこれはあくまで、当時の技術でも航海が不可能ではないという証明であり、両文明に交流があった事の裏付けにはならない。言語など他の要素において共通項が見られないことから、両文明の交流には否定的な見解が優勢である。巨大な石積みの建造物がピラミッド状となるのは、当時の建築技術上の必然(垂直に切り立った石壁を築くほうが、当然ながらピラミッド状に建造するよりも技術的には困難)である。ただし、ミトコンドリアDNAハプログループXおよびY染色体ハプログループR1の不可解な分布は、エジプト・ヨーロッパからアメリカへの移住が存在したとする説を支持する可能性がある。
フリーメイソン建造説[編集]

フリーメイソンのシンボルの内の1つプロビデンスの目。
たびたび秘密結社として紹介されるフリーメイソンが作ったとする説がある(フリーメイソン#起源も参照)。これはフリーメイソンの起源の1つとして石工組合としての実務的メイソンリーが前身として中世に存在したとする説であり、フリーメイソンのシンボルの1つであるプロビデンスの目はピラミッドを想起させる三角形が使われており、事実、集会所でもあるロッジには「ピラミッド・ロッジ」や「スフィンクス・ロッジ」などエジプトやピラミッドにちなんだ名前がつけられている。しかし、古代エジプトにフリーメイソンが存在した説は発見されていない。しかし近年、フリーメイソンのロッジを思わせる集落が発見されたらしい。また、参入儀式はエジプト神話のオシリスとイシスの伝説に基づいて行われる。
エピソード[編集]
ナポレオン・ボナパルトは、ピラミッドの戦いで、エジプト軍の中で戦場で考慮すべきは騎兵隊だけであると判断した。彼は「兵士諸君!あの遺跡の頂から40世紀の歴史が諸君を見下ろしている」と言って配下の軍隊を鼓舞した。
形容詞としてのピラミッド[編集]
もっとも代表的なピラミッドであるギザのピラミッドが明確に四角錐の形状をしているため、「ピラミッド」は四角錐または三角形のものの代名詞となっている。例えば上部がとがって下部に向かって広がっていく形状のものや四角錐のものは「ピラミッド型」と呼ばれる。ヒエラルキーは、上部に少数の支配層や強者が位置し、下部に行くにしたがって数を増していく被支配層や弱者が位置する階層構造が三角形をなしているため、「ピラミッド型構造」と呼ばれる。自然界の生物量も食物連鎖に従い同様の階層構造をしているため、生態ピラミッドという言葉で呼ばれる。
関連記事[編集]
ウィキクォートにピラミッドに関する引用句集があります。
カイロ
スフィンクス
ベンベン
エジプト無名戦士記念碑
アル=アハラーム
参考文献・脚注[編集]
ウィキメディア・コモンズには、ピラミッドに関連するメディアおよびカテゴリがあります。
^ 下川 香苗 (著), 茶留 たかふみ (著), 本村 凌二 (著) 『世界の歴史 (1) エジプトとメソポタミアの繁栄 : 古代オリエント 集英社版・学習漫画』2002年、154頁。
^ 「図説ピラミッドの歴史」p20-21 大城道則 河出書房新社 2014年2月28日初版発行
^ http://www.afpbb.com/articles/-/2681358 「クフ王ピラミッド近くに労働者の墓、「奴隷が建設」の通説と矛盾 エジプト」AFPBB 2010年01月11日 2017年2月17日閲覧
^ a b c d e f g h i j k NHKスペシャル エジプト発掘 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
^ クフ王型大ピラミッド建設の試み 季刊大林|バックナンバー
^ NEWSポストセブン2012年1月14日配信「ピラミッド 20年で完成と言われるが実際は数百年かかったか」
^ http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0802/feature01/_01.shtml 「特集 古代エジプトを支配したヌビア人の王たち ブラックファラオ」ナショナルジオグラフィック日本版サイト 2008年2月号 2017年2月15日閲覧
^ 「図説ピラミッドの歴史」p111-112 大城道則 河出書房新社 2014年2月28日初版発行
^ http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0802/feature01/_05.shtml 「特集 古代エジプトを支配したヌビア人の王たち ブラックファラオ」ナショナルジオグラフィック日本版サイト 2008年2月号 2017年2月15日閲覧
^ http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0802/feature01/_02.shtml 「特集 古代エジプトを支配したヌビア人の王たち ブラックファラオ」ナショナルジオグラフィック日本版サイト 2008年2月号 2017年2月15日閲覧
^ http://www.afpbb.com/articles/-/3014249?pid=0 「スーダン、秘められたピラミッドの謎に迫る」AFPBB 2014年05月06日 2017年2月15日閲覧
^ 「マヤ文明 密林に栄えた石器文化」p9 青山和夫 岩波新書 2012年4月20日第1刷
^ 「マヤ文明 密林に栄えた石器文化」p29 青山和夫 岩波新書 2012年4月20日第1刷
^ http://www.cnn.co.jp/fringe/35092427.html 「ピラミッド内部に別のピラミッド、メキシコの遺跡で発見」 CNN 2016.11.18 2017年2月15日閲覧
^ http://www.afpbb.com/articles/-/3108311 「マヤ文明の「入れ子ピラミッド」、内部に第3のピラミッドを発見」AFPBB 2016年11月17日 2017年2月15日閲覧
^ “外務省: 在外公館ニュース(在ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館)”. 外務省 (2006年9月). 2013年4月14日閲覧。 “ボスニア人アマチュア考古学者オスマナギッチ氏がこの山を12000年前のピラミッドとする説を発表、発掘作業を開始”
^ “外務省: 在外公館ニュース(在ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館)”. 外務省 (2006年9月). 2013年4月14日閲覧。 “この山は自然の隆起で出来たものだとする考古学者もおり、ピラミッド説の真偽は未だ解明されず”
^ http://www.afpbb.com/articles/-/2591976 「ルーブル美術館のガラスのピラミッド20周年記念、光のメッセージで祝う」AFPBB 2009年04月12日 2017年2月15日閲覧
^ 『太古日本のピラミッド』 - 国立国会図書館
^ ドキュメンタリー映画「ピラミッド 5000年の嘘」
外部リンク[編集]
ピラミッドの算数
カテゴリ: ピラミッドメソアメリカ文明土木史オーパーツ
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大林組は1978年に、現代の技術ならmクフ王の大ピラミッドをどのように建設するかについて研究する企画を実行した[5]。それによれば総工費1250億円、工期5年、最盛期の従業者人数3500人といエジプトのピラミッド

南の大地から見たギーザのピラミッド。右からクフ王、カフラー王、メンカウラー王のもの。手前の小さな3つのピラミッドはメンカウラー王の衛星ピラミッド

スフィンクスから見たカフラー王のピラミッド
エジプトのピラミッド(Egyptian pyramids)は、エジプトに位置する、角錐の形をした古代のピラミッドである。2008年時点で138基が発見されている[1][2]。そのほとんどは、エジプト古王国からエジプト中王国時代のファラオかその家族の墓である[3][4] [5]。
エジプトのピラミッドのうち最も古いものは、ジェゼル王のピラミッドで、エジプト第3王朝の時代に作られた。このピラミッドと周囲の建造物はイムホテプによってデザインされ、化粧石で造られた世界で最も古いモニュメントだと考えられている。
エジプトのピラミッドで最もよく知られているのは、カイロ郊外にあるギーザのピラミッドである。ギーザのピラミッドのいくつかは、歴史上最も大きな建築物だと考えられている[6]。
ギザにあるクフ王のピラミッドは、エジプトのピラミッドで最も大きなものであり、世界の七不思議の一つに数えられている。
目次 [非表示]
1 歴史的な発展
2 ピラミッドのシンボル
3 三大ピラミッド
4 ピラミッドの数と場所
4.1 アブ・ラワシュ
4.2 ギーザ
4.3 ザウィト・エル・ アリアン
4.4 アブ・シール
4.5 サッカラ
4.6 ダハシュール
4.7 マズグハナ
4.8 リシュト
4.9 メイドゥーム
4.10 ハワーラ
4.11 エル・ラフーン
4.12 建設時期
5 関連項目
6 出典
7 参考文献
8 外部リンク
歴史的な発展[編集]

サッカラにあるファラオのマスタバ
エジプトの王朝の初期の時代から、マスタバとして知られるベンチ状の構造物は大きな意味を持っていた[7][8]。
文献上最初のエジプトのピラミッドはイムホテプにより作られたものであり、それはジェセルのために計画されたと考えられている。マスタバの上部同士を積み重ね、頂上まで何段にもなる大構造物にすることを最初に考えたのはイムホテプだと言われている。それを実現したものがジェセルの階段ピラミッドであり、死んだファラオの魂が階段を登って天国に行けるようになっている。これこそが後のエジプト人にイムホテプを神聖視させた重要な業績であった[9]。
ピラミッドが最も多く作られた時代は、ファラオの権威が絶対的であった時代と一致する。ギザのピラミッドの近くにある多くの有名なピラミッドができたのもこの時代である。時とともに権威は分散し、ピラミッドの建設に必要な資源や熱意は失われていき、ピラミッドは小さくみすぼらしくなっていった。
ピラミッド建設時代が終息してからもその影響は周辺諸国にも及んだ。特に現在のスーダンにいたヌビア人にその影響は著しい(ヌビアのピラミッド)。ヌビア人たちは北進してエジプトを支配し、第25王朝を成立させたが、その後アッシリアに追われて南遷(クシュ王国)、その都ナパタ(英語版)や近隣のゲベル・バルカルに多くのピラミッドを建造した。紀元前661年にナパタを都とする時代が終わり、紀元前300年から300年頃のメロエを都とする時代になると、ピラミッド再建の機運が再び高まり、200以上のピラミッドが作られた。
ピラミッドのシンボル[編集]

ピラミッドの内部構造の図示
エジプトのピラミッドの形は、ベンベンを模していると考えられ、エジプト人は地球はここから創られたと考えていた。またこの形は太陽の光線を表しているとも考えられている。多くのピラミッドの表面は磨かれて反射率の高い石灰岩でできており、遠くから見た時に輝いて見える。
ピラミッドは死者のモニュメントだと一般的に考えられているが、特定の神学的原則からこの説に反対し続けている者もいる。ある説では、ピラミッドは一種の甦りのマシーンとしてデザインされたというものもある[10]。
エジプト人は、夜空で星が周りを回っている暗い部分は、天国への物理的な玄関だと考えていた。メインの墓室から伸びる軸の1つはピラミッドの中を抜けて、空のこの方向を向いている。このことは、ピラミッドはファラオの魂を神に届ける呪術的な装置であったことを示唆している。
エジプトのピラミッドは、全てナイル川の西岸に作られている。これは、エジプトの神話で日の沈む場所は死者の領域だったからである[11]。
三大ピラミッド[編集]
詳細は「三大ピラミッド」を参照
三大ピラミッドとは、エジプト、ギザの砂漠にある3基のピラミッドの総称。
クフ王のピラミッド
カフラー王のピラミッド
メンカウラー王のピラミッド
ピラミッドの数と場所[編集]
1842年、ドイツの考古学者カール・レプシウスは最初のピラミッドのリストを作り、67件を掲載した。それ以降も多数のピラミッドが発見され、2008年11月現在では118を数える[3]。
レプシウスが「首なしピラミッド」と呼んだ29番目のピラミッドの位置は、レプシウスの調査後に砂漠の砂に埋まってしまい、2度に渡って分からなくなったが、2008年に行われた発掘調査で再発見された[12]。
多くのピラミッドは保存状態が悪かったり、砂に埋まってしまっている。もし見えていたとしても、がれきの山にしか見えないものも多い。
直近に見つかったピラミッドは、エジプト第6王朝のファラオテティの母シェシェティのもので、サッカラにあった。エジプト考古最高評議会の長ザヒ・ハワスによって2008年11月11日に発表された[4][13]。
ザウィト・エル・ マイティンにある第3王朝期の小規模のものを除くエジプトの全てのピラミッドは、ナイル川の西岸に作られていて、そのほとんどがいくつかのグループを作っている。
アブ・ラワシュ[編集]

かなり破壊されたジェドエフラーのピラミッド
アブ・ラワシュには、エジプトの最北端のピラミッドである、ジェドエフラーのピラミッドが存在する[5]。従来このピラミッドは未完成であったと考えられてきたが、近年、完成していただけではなく、メンカウラー王のピラミッドと同じ高さであったということが考古学界の定説となっている。
この場所は大きな交差路に隣接しており、石の供給が容易であった。小さな衛星ピラミッドには、保存状態のよいものが多い。
ギーザ[編集]

ギーザのピラミッドの位置関係
ギーザには、クフ王のピラミッド、カフラー王のピラミッド、メンカウラー王のピラミッドの三大ピラミッドや「女王のピラミッド」と呼ばれる小さな衛星ピラミッド、スフィンクス等が存在する。
3つの中で、カフラー王のピラミッドだけが頂上付近に建設当時の石灰岩を残している。このピラミッドは、高い場所に建っており、しかも急勾配であるため、隣接するクフ王のピラミッドよりも見た目には大きく見える。
三大ピラミッドは、古代より人気の観光スポットであり、シドンのアンティパトロスによって世界七不思議に挙げられ有名になった。今日では、七不思議のうち現存する唯一のものである。
なお、2013年8月に発生したムスリム同胞団と治安部隊との衝突を受け、エジプト考古省は2013年8月14日から一時閉鎖措置をとっている[14]。
ザウィト・エル・ アリアン[編集]
ザウィト・エル・ アリアンは、ギーザとアブ・シールの中間にあり、古王国時代の2つの未完成ピラミッドがある。北方のピラミッドはサナクト王、南方のピラミッドはカーバー王のものと考えられている。カーバーのファラオとしての4年間の在任期間中にピラミッドの建設が打ち切られたと考えられている。高さは約20mであるが、完成すれば40m程度になったと推測される。
アブ・シール[編集]

サフラーのピラミッド
この地には、エジプト第5王朝の14個のピラミッドがある。アブ・シールのピラミッドの建築の質は、エジプト第4王朝のものよりも低い。これはファラオの権力が低下したか経済の活力が低減したのが原因かもしれない。
有名なものとしては、最も保存状態のよいニウセルラーの他、ネフェルイルカラー、サフラーのものがある。また、ネフェルエフラーの未完成のピラミッドもある。アブ・シールの主要なピラミッドは全て階段ピラミッドとして建てられたが、その大半は後に階段部分が埋められて角錐のピラミッドになったと考えられている。
サッカラ[編集]

ジェセルの階段ピラミッド
サッカラの有名なピラミッドには、世界最古の石造建築物であるジェセルの階段ピラミッドがある。その他にもウセルカフやテティ、エジプトで最も保存状態がよいものの一つウナスのピラミッドがある。このピラミッドは、ラムセス2世の息子による最初の復元の対象の一つにもなった。サッカラにはセケムケトの未完成の階段ピラミッドもあり、「埋蔵ピラミッド」として知られている。考古学者は、このピラミッドが完成していたらジェセルのもの以上の規模になったと推測している。
サッカラの主要なピラミッド群の南方には、後の時代の小さなピラミッドの群があり、ペピ1世やペピ2世のピラミッドがある。その多くは保存状態が悪い。
第4王朝のファラオシェプスセスカーフは、ピラミッドの建設に対する興味も能力も持たなかった。サッカラ南部にある彼の墓は大きなマスタバで寺院が付属し、「ファラオのマスタバ」として知られている[15]。
2008年末にサッカラ北部で埋葬者不明のピラミッドが発見された。テティの母の墓だと考えられている。約5mの高さだが、建設当時は14m程度あったと考えられている。墓の開封は2008年12月に行われた。
ダハシュール[編集]

スネフェルの赤いピラミッド
ダハシュールは、ギーザとサッカラに次いで重要な場所であるが、軍事基地があったため1996年まで立ち入ることができなかった。そのため、考古学者による調査が比較的進んでいない。
スネフェルのピラミッドは屈折ピラミッドとして知られ、建設者が意図して角を滑らかに作った最初のピラミッドだと考えられている。
屈折ピラミッドから北に数kmの場所には、スネフェルの時代に作られた3つのピラミッドが残っている。そのうちの1つ赤いピラミッドは全ての角が完全に滑らかな最初のピラミッドであり、ギーザのクフ王のピラミッド、カフラー王のピラミッドに次いで、エジプトで3番目に大きい。
そのほかダハシュールには、アメンエムハト3世の黒いピラミッドや多くの小規模ピラミッドがある。
マズグハナ[編集]
ダハシュールの南にあるマズグハナには、エジプト第一中間期のファラオが建てたピラミッドがある。
リシュト[編集]

アメンエムハト1世のピラミッド
リシュトには、アメンエムハト1世とその息子センウセレト1世による2つの主要なピラミッドが知られている。後者は10個の小規模なピラミッドの廃墟に囲まれており、そのうちの1つはアメンエムハトの従兄弟であるカーバー2世のものであることが分かっている[16]。この場所はファイユームオアシスに近く、ダハシュールとメイドゥームの中間、カイロの約100km南方にある。また、エジプト第12王朝の首都で現在は正確な位置が分からないイタチウイにも近かったと考えられている。
メイドゥーム[編集]

メイドゥームのピラミッド
メイドゥームのピラミッドは、スネフェルの治世下で作られた3つのピラミッドのうちの1つで、父親のフニによって始められたと考えられている。しかし、この説は確実ではなく、この場所からフニの名を記したものは何も見つかっていない。
このピラミッドは当初階段ピラミッドとして建設され、後に段が埋められて滑らかなものに作り替えられた。
このピラミッドは、古代から中世にかけて幾度も破壊の危機に晒された。中世のアラブ人は、7段あったと記しているが、今日では上の3段しか残っていない。
ハワーラ[編集]

アメンエムハト3世のピラミッド
アメンエムハト3世は、第12王朝で強い権力を持った最後のファラオであり、ファイユーム近くのハワーラにハワーラのピラミッドを建てた。
エル・ラフーン[編集]

センウセレト2世のピラミッド
エル・ラフーンにあるセンウセレト2世のピラミッドはエジプト最南端のピラミッドである。12mの高さの天然の石灰岩を基礎に用いることによって、建設に必要な労働が大幅に抑えられている。
建設時期[編集]
下記の表は、エジプトの主要なピラミッドを建設年代順に並べたものである。それぞれのピラミッドは建設を発注したファラオの名前で表され、おおよその年代と場所が記されている。
ピラミッド/ファラオ 統治期間 場所
ジェセル c. 2630 - 2612 BC サッカラ
スネフェル c. 2612 - 2589 BC ダハシュール
スネフェル c. 2612 - 2589 BC ダハシュール
スネフェル c. 2612 - 2589 BC メイドゥーム
クフ c. 2589 - 2566 BC ギーザ
ジェドエフラー c. 2566 - 2558 BC アブ・ラワシュ
カフラー c. 2558 - 2532 BC ギーザ
メンカウラー c. 2532 - 2504 BC ギーザ
サフラー c. 2487 - 2477 BC アブ・シール
ネフェルイルカラー c. 2477 - 2467 BC アブ・シール
ニウセルラー c. 2416 - 2392 BC アブ・シール
アメンエムハト1世 c. 1991 - 1962 BC リシュト
センウセレト1世 c. 1971 - 1926 BC リシュト
センウセレト2世 c. 1897 - 1878 BC エル・ラーフン
アメンエムハト3世 c. 1860 - 1814 BC ハワーラ
関連項目[編集]
ピラミッド
カイロ
スフィンクス
ギーザ
ジッグラト
救済土木事業
出典[編集]
ウィキメディア・コモンズには、エジプトのピラミッドに関連するカテゴリがあります。
^ “In the Shadow of a Long Past, Patiently Awaiting the Future”
^ “Mark Lehner (2008). The Complete Pyramids: Solving the Ancient Mysteries. p. 34.”. Thames & Hudson. 2009年10月5日閲覧。
^ a b “Egypt says has found pyramid built for ancient queen”. Reuters 2008年11月18日閲覧. "The pyramid, which Hawass said was the 118th found in Egypt, was uncovered near the world's oldest pyramid at Saqqara, a burial ground for the rulers of ancient Egypt."
^ a b “In the Shadow of a Long Past, Patiently Awaiting the Future”. New York Times. (2008年11月16日) 2008年11月17日閲覧. "Deep below the Egyptian desert, archaeologists have found evidence of yet another pyramid, this one constructed 4,300 years ago to store the remains of a pharaoh’s mother. That makes 138 pyramids discovered here so far, and officials say they expect to find more."
^ a b Michael Ritter (2003) [1] Dating the Pyramids. Retrieved 13 April 2005
^ Watkin, David (4th ed. 2005). A History of Western Architecture. Laurence King Publishing. pp. 14. ISBN 978-1856694599."The Great Pyramid...is still one of the largest structures ever raised by man, its plan twice the size of St. Peter's in Rome"
^ [2] Burial customs: mastabas. University College London (2001) Retrieved 14 April 2005
^ [3] Burial customs in Early Dynastic Egypt. University College London (2001). Retrieved 14 April 2005
^ [4] Imhotep, Doctor, Architect, High Priest, Scribe and Vizier to King Djoser (Jimmy Dunn). Retrieved 24 April 2005
^ [5] The Pyramids: "Resurrection Machines". (Houghton Mifflin College) Retrieved 13 April 2005
^ [6] Hidden History of Egypt (The Discovery Channel (2002-2004)) Retrieved 13 April 2005
^ [7]
^ http://news.nationalgeographic.com/news/2008/11/081111-new-pyramid-egypt.html
^ “エジプト:ピラミッドも一時閉鎖 衝突拡大で”. 毎日新聞. (2013年8月15日) 2013年8月20日閲覧。
^ [8] The Mastaba of Shepseskaf
^ Allen, James; Manuelian, Peter (2005), The Ancient Egyptian Pyramid Texts (Writings from the Ancient World, No. 23), Brill Academic, ISBN 978-9004137776
参考文献[編集]
I. E. S. Edwards, The Pyramids of Egypt Penguin Books Ltd; New Ed edition (5 Dec 1991), ISBN 978-0-14-013634-0
Mark Lehner, The Complete Pyramids, Thames & Hudson, 1997, ISBN 978-0-500-05084-2
Kurt Mendelssohn, The Riddle of the Pyramids, Thames & Hudson Ltd (6 May 1974), ISBN 978-0-500-05015-6
外部リンク[編集]
Newsweek's Interactive Graphic on Djedefre's pyramid with Interactive Timeline of the major pyramids of ancient Egypt
Ancient Authors – A site that quotes descriptions of the "Labyrinth" of Amenemhet III's pyramid at el-Lahun by various ancient authors.
ANCIENT EGYPT - History & Chronology – A site detailing the major pyramid sites of ancient Egypt and Nubia (Sudan).
Pyramids in relation with the Noble Quraan (Quran)
diagram of an ancient pyramid from bbc.co.uk
Pyramids World Heritage Site in panographies - 360 degree interactive imaging
The Pyramids of Egypt - The meaning and construction of the Egyptian pyramids by Egyptologist Professor Nabil Swelim.
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カテゴリ: エジプトのピラミッド古代エジプトの信仰
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最終更新 2016年11月3日 (木) 19:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
テキストはう数字が弾き出された。1立方m当たりの価格は、コンクリートダムが2万4000円前後に対してピラミッドは4万8000円になるという(金額は当時のもの)。なおこの試算に対して、1960年代アブ・シンベル神殿の移設に重機による5年かけて解体されたのは2200のブロック、それに対してピラミッドは200万個以上と現代でも可能なのかと疑問を呈されることもある[6]。
ヌビアのピラミッド[編集]

ヌビアのピラミッドの航空写真(メロエ)
詳細は「ヌビアのピラミッド」を参照
エジプトにおいて王のためのピラミッドが建設されなくなったのは紀元前16世紀であるが、それから800年ほどたった紀元前8世紀に、エジプト文化の影響を強く受けていた南のヌビアにおいてピラミッド建設が開始された。ヌビアのピラミッド建造開始は、ナパタに都をおくクシュ王国のピイ王がエジプトを征服しエジプト第25王朝を開いてからである[7]。ピイ王は王家の墓地のあったエル・クッルに小型のピラミッドを建造し、以後の第25王朝の諸王もこの地にピラミッドを建造した。これらのピラミッドは底辺が10mほどの小型のものであり、礼拝堂が併設され、中の玄室には遺体が安置された。すなわち、ヌビアのピラミッドは諸説あるエジプトのものとは違い、明確に墓として建造されていた[8]。紀元前656年に第25王朝のタハルカ王がアッシリアに敗れてエジプトを失陥しヌビアに撤退したのちも、ピラミッドの建造は続けられた。ただしタハルカはエル・クッルに代わり、その対岸にあるヌリにピラミッドを築いた[9]。紀元前591年ごろに首都がナパタからメロエへと遷都されると、ピラミッドはメロエにおいて建造されるようになった。このピラミッド建造は、メロエ王国が滅亡する紀元後4世紀まで、約1200年にわたりつづけられた。小型であり建設された期間も長かったことからこのピラミッド群は多数建造され、エジプトのピラミッドよりも多数のものが残されている[10]。このピラミッド群は21世紀に入っても発掘が続けられており、スーダンの貴重な観光名所の一つとなっている[11]。
中南米[編集]

ティカル1号神殿

ワシャクトゥンGroup Eの中心部にあるスタッコ人頭神殿

モチェ遺跡の「太陽のワカ」
メソアメリカ文明のピラミッド様建築は、陵墓・天文台として造られた物もあったが、基本的には神殿として建設・使用された。建設された時期は各文明によって異なるが、マヤ文明の場合はもっとも古く存在が確認されているピラミッドはセイバル遺跡のもので、紀元前1000年ごろには存在が確認されている[12]。その後ピラミッドはマヤ文明の各都市で相次いで建設されるようになり、紀元前400年以降の先古典期後期にはエル・ミラドール遺跡において高さ70mにも及ぶラ・ダンタ・ピラミッドが築かれた。このピラミッドはマヤ文明において建設された中で最も大きなものである。その後も各都市は盛衰を繰り返しながらピラミッドを建設し、古典期のティカルや後古典期のチチェン=イッツアなど、現在でも残っているものも多い。マヤ文明の場合、ピラミッドは古典期においてウィツ(山)と呼ばれていたように、ピラミッドはそのまま人工の山として認識されており、山岳信仰との関連が指摘されている[13]。
基本的には上部に神殿を持つため、四角錐ではなく上面が平らになっていて、神殿の土台としての性格が強い。単数ないし複数の辺から神殿に到る階段が存在するのが基本である。マヤ文明のものを例に挙げると、パレンケの「碑銘の神殿」、チチェン=イッツアの「カスティーヨ」、ティカル1号神殿などは9段の基壇を持ち、9層の冥界を表すと言われているが、全ての神殿の基壇数がそのような意味を持っているわけではない。新しいピラミッド神殿は、古いそれの上に礫・土を積み上げて石材で表面を覆い隠す形で建造されるのが常であり、発掘すると多層構造が明らかになる場合がある。2016年11月にはチチェン=イッツアで、2層のピラミッドの下に3層目のピラミッドが発見されたと報じられた[14][15]。また、エジプトのピラミッドと異なり、内部の空洞はあまりない。
マヤ文明の建造物15号と呼ばれているピラミッドでは、第1層の床を切って開けたところ、女王の墓が見つかったと「Antiquity」誌、2011年9月号で発表された。[要出典]マヤ文明において、女王が支配していたという事例は珍しい。理由は不明だが、遺体は頭部に容器で被せられており、同地域であるグアテマラにあるティカル遺跡でも同様の事例が見つかっている。上の層は1300年前に作られた墓になっており、2層目は約2000年ほど前に作られたことがわかっている。
建築様式は古典期以降、テオティワカン独特の水平垂直壁のタブレロとそれをのせた斜面壁のタルーが組み合わされたタルー・タブレロ様式の基壇を採用した神殿ピラミッドが各地に築かれた。
メソアメリカで天文台として使われていた神殿で有名なのは、ティカルの Mundo Perdido(「失われた世界」)グループとワシャクトゥンのグループEである。グループEについては、各種概説書でピラミッドE-VIIからピラミッドE-Iは、夏至の日の出の方向であり、ピラミッドE-IIは、春分・秋分の日の出の方向、E-IIIは、冬至の日の出の方向に当たると紹介されている。
アンデス文明のピラミッドで良く知られているのは、モチェ文化のモチェ谷にある「太陽のワカ」「月のワカ」と呼ばれる日干煉瓦で築かれた建物である。「太陽のワカ」は、かつては、長さ342m、幅159m、高さ40mあったと推定されているが、17世紀に盗掘者達が川の流路を変更して削り取ったために半分以上が失われている。一方「月のワカ」は長さ95m、幅85m、高さ20m程の規模である。最近発掘調査が行われ、壁画に盾や棍棒の擬人化した図像に加え、ジャガーらしいものも見られる。このような要素は「太陽のワカ」には見られず、宗教的・儀礼的な空間として機能していたと考えられる。またモチェV期(A.D.550〜700頃)には、パンパ・グランデ遺跡でワカ=フォルタレサというピラミッドが築かれ、高さ55mに達している。
また、ボリビアのチチカカ湖畔にあるティワナク遺跡中心部に、アカパナと呼ばれるピラミッドがあり、中心部からやや離れた場所にプマ・プンクと呼ばれる低い基壇状のピラミッド状建築物がある。
その他[編集]
メソポタミア文明において神殿に付随して建設されたジッグラトも、日干し煉瓦を階段状に積み上げていったものであり、階段ピラミッドに含まれるものである。また、スペイン領カナリア諸島のテネリフェ島にあるグイマー村付近にも石を積み上げた階段状の建造物が存在しており、グイマーのピラミッドと呼ばれているが、これがいつごろ何のために建造されたかについては判明していない。
イタリア[編集]

ローマのガイウス・ケスティウスのピラミッド
ガイウス・ケスティウスのピラミッド
このピラミッドは、紀元前18年から12年の間に建造されたもので、古代ローマの執政官、法務官を務めていたガイウス・ケスティウス・エプロの墓である。外観は、本場エジプトのピラミッドよりも急勾配でヌビアのピラミッドに近い。外部は、白色の大理石により化粧が施されている。
ボスニア[編集]
詳細は「en:Bosnian pyramids」および「ボスニアのピラミッド説」を参照
ボスニアのヴィソコにはヨーロッパ初のピラミッドなどとされる山[16]があるが、ただの山であるとも言われる[17]
現代のピラミッド[編集]

ルーヴル美術館メイン・エントランスのルーヴル・ピラミッド。
ピラミッドは非常に特徴的な外観をしており、これを模した、あるいはヒントを得た現代の建造物は世界中に多数存在する。最も著名なもののひとつはフランスのルーヴル美術館の中庭に1989年に完成したガラス製のピラミッド[18]、いわゆるルーヴル・ピラミッドである。
俗信・数奇伝説など[編集]
巨大にして精緻な建造物であるピラミッドには、さまざまな風聞が付きまとった。
ピラミッドパワー[編集]
ピラミッド形の物体には不思議な力が宿るとする迷信がある。ピラミッドパワーを参照のこと。
「日本にもピラミッドがある」説[編集]
日本の、自然の山と思われているものの中には、人工的に作られたピラミッド様建築物が存在しているという説がある。酒井勝軍らが『太古日本のピラミッド[19]』(国教宣明団)などで主張していた。例として葦嶽山など。
超文明説[編集]
現代の土木機械を大量に投入してもなお多大な労力を要するものを、20〜30年で古代人ができたはずがなく、ゆえにピラミッドは古代宇宙飛行士説による宇宙人や超古代文明によって作られた、とする説が提唱されることがある。反論として、ピラミッド建設に携わったとされる作業員の人数が20万人という桁違いのものであり、徹底した分業体制が敷かれていたという点が挙げられる(これは発掘調査から明らかである)。
一方で、その建造方法の詳細はいまだに明らかになっておらず、例えばギザのピラミッドでは200万個もの石が「春分と秋分の日のみ、8面体にピラミッドが見える」「ピラミッドの底面積で、四面の面積を割ると黄金率が出てくる」「底辺の1/2で高さを割ると黄金率の平方根が出てくる」(この指摘から以下のことが導かれる。底辺の長さをa、黄金率をφとすると、底辺の中点Aから底面の中心点Bはa/2、底面の中心点Bから頭頂点Cは√φa/2、頭頂点Cから底辺の中点Aはφa/2。つまり、AB:BC:CA=1:√φ:φ)「高さで2辺の和を割ると円周率が出てくる」という現代でもあり得ないほどの精密さで建造されている[20]。
大西洋を挟んでピラミッドが建設されたことにより、両文明の交流の可能性が主張されることもある。特に有名なのはトール・ヘイエルダールであり、彼は自説を証明するために古代エジプトの葦船を復元して大西洋横断を行った。しかしこれはあくまで、当時の技術でも航海が不可能ではないという証明であり、両文明に交流があった事の裏付けにはならない。言語など他の要素において共通項が見られないことから、両文明の交流には否定的な見解が優勢である。巨大な石積みの建造物がピラミッド状となるのは、当時の建築技術上の必然(垂直に切り立った石壁を築くほうが、当然ながらピラミッド状に建造するよりも技術的には困難)である。ただし、ミトコンドリアDNAハプログループXおよびY染色体ハプログループR1の不可解な分布は、エジプト・ヨーロッパからアメリカへの移住が存在したとする説を支持する可能性がある。
フリーメイソン建造説[編集]

フリーメイソンのシンボルの内の1つプロビデンスの目。
たびたび秘密結社として紹介されるフリーメイソンが作ったとする説がある(フリーメイソン#起源も参照)。これはフリーメイソンの起源の1つとして石工組合としての実務的メイソンリーが前身として中世に存在したとする説であり、フリーメイソンのシンボルの1つであるプロビデンスの目はピラミッドを想起させる三角形が使われており、事実、集会所でもあるロッジには「ピラミッド・ロッジ」や「スフィンクス・ロッジ」などエジプトやピラミッドにちなんだ名前がつけられている。しかし、古代エジプトにフリーメイソンが存在した説は発見されていない。しかし近年、フリーメイソンのロッジを思わせる集落が発見されたらしい。また、参入儀式はエジプト神話のオシリスとイシスの伝説に基づいて行われる。
エピソード[編集]
ナポレオン・ボナパルトは、ピラミッドの戦いで、エジプト軍の中で戦場で考慮すべきは騎兵隊だけであると判断した。彼は「兵士諸君!あの遺跡の頂から40世紀の歴史が諸君を見下ろしている」と言って配下の軍隊を鼓舞した。
形容詞としてのピラミッド[編集]
もっとも代表的なピラミッドであるギザのピラミッドが明確に四角錐の形状をしているため、「ピラミッド」は四角錐または三角形のものの代名詞となっている。例えば上部がとがって下部に向かって広がっていく形状のものや四角錐のものは「ピラミッド型」と呼ばれる。ヒエラルキーは、上部に少数の支配層や強者が位置し、下部に行くにしたがって数を増していく被支配層や弱者が位置する階層構造が三角形をなしているため、「ピラミッド型構造」と呼ばれる。自然界の生物量も食物連鎖に従い同様の階層構造をしているため、生態ピラミッドという言葉で呼ばれる。
関連記事[編集]
ウィキクォートにピラミッドに関する引用句集があります。
カイロ
スフィンクス
ベンベン
エジプト無名戦士記念碑
アル=アハラーム
参考文献・脚注[編集]
ウィキメディア・コモンズには、ピラミッドに関連するメディアおよびカテゴリがあります。
^ 下川 香苗 (著), 茶留 たかふみ (著), 本村 凌二 (著) 『世界の歴史 (1) エジプトとメソポタミアの繁栄 : 古代オリエント 集英社版・学習漫画』2002年、154頁。
^ 「図説ピラミッドの歴史」p20-21 大城道則 河出書房新社 2014年2月28日初版発行
^ http://www.afpbb.com/articles/-/2681358 「クフ王ピラミッド近くに労働者の墓、「奴隷が建設」の通説と矛盾 エジプト」AFPBB 2010年01月11日 2017年2月17日閲覧
^ a b c d e f g h i j k NHKスペシャル エジプト発掘 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
^ クフ王型大ピラミッド建設の試み 季刊大林|バックナンバー
^ NEWSポストセブン2012年1月14日配信「ピラミッド 20年で完成と言われるが実際は数百年かかったか」
^ http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0802/feature01/_01.shtml 「特集 古代エジプトを支配したヌビア人の王たち ブラックファラオ」ナショナルジオグラフィック日本版サイト 2008年2月号 2017年2月15日閲覧
^ 「図説ピラミッドの歴史」p111-112 大城道則 河出書房新社 2014年2月28日初版発行
^ http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0802/feature01/_05.shtml 「特集 古代エジプトを支配したヌビア人の王たち ブラックファラオ」ナショナルジオグラフィック日本版サイト 2008年2月号 2017年2月15日閲覧
^ http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0802/feature01/_02.shtml 「特集 古代エジプトを支配したヌビア人の王たち ブラックファラオ」ナショナルジオグラフィック日本版サイト 2008年2月号 2017年2月15日閲覧
^ http://www.afpbb.com/articles/-/3014249?pid=0 「スーダン、秘められたピラミッドの謎に迫る」AFPBB 2014年05月06日 2017年2月15日閲覧
^ 「マヤ文明 密林に栄えた石器文化」p9 青山和夫 岩波新書 2012年4月20日第1刷
^ 「マヤ文明 密林に栄えた石器文化」p29 青山和夫 岩波新書 2012年4月20日第1刷
^ http://www.cnn.co.jp/fringe/35092427.html 「ピラミッド内部に別のピラミッド、メキシコの遺跡で発見」 CNN 2016.11.18 2017年2月15日閲覧
^ http://www.afpbb.com/articles/-/3108311 「マヤ文明の「入れ子ピラミッド」、内部に第3のピラミッドを発見」AFPBB 2016年11月17日 2017年2月15日閲覧
^ “外務省: 在外公館ニュース(在ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館)”. 外務省 (2006年9月). 2013年4月14日閲覧。 “ボスニア人アマチュア考古学者オスマナギッチ氏がこの山を12000年前のピラミッドとする説を発表、発掘作業を開始”
^ “外務省: 在外公館ニュース(在ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館)”. 外務省 (2006年9月). 2013年4月14日閲覧。 “この山は自然の隆起で出来たものだとする考古学者もおり、ピラミッド説の真偽は未だ解明されず”
^ http://www.afpbb.com/articles/-/2591976 「ルーブル美術館のガラスのピラミッド20周年記念、光のメッセージで祝う」AFPBB 2009年04月12日 2017年2月15日閲覧
^ 『太古日本のピラミッド』 - 国立国会図書館
^ ドキュメンタリー映画「ピラミッド 5000年の嘘」
外部リンク[編集]
ピラミッドの算数
カテゴリ: ピラミッドメソアメリカ文明土木史オーパーツ
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最終更新 2017年8月27日 (日) 16:39 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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大林組は1978年に、現代の技術ならmクフ王の大ピラミッドをどのように建設するかについて研究する企画を実行した[5]。それによれば総工費1250億円、工期5年、最盛期の従業者人数3500人という数字が弾き出された。1立方m当たりの価格は、コンクリートダムが2万4000円前後に対してピラミッドは4万8000円になるという(金額は当時のもの)。なおこの試算に対して、1960年代アブ・シンベル神殿の移設に重機による5年かけて解体されたのは2200のブロック、それに対してピラミッドは200万個以上と現代でも可能なのかと疑問を呈されることもある[6]。
ヌビアのピラミッド[編集]

ヌビアのピラミッドの航空写真(メロエ)
詳細は「ヌビアのピラミッド」を参照
エジプトにおいて王のためのピラミッドが建設されなくなったのは紀元前16世紀であるが、それから800年ほどたった紀元前8世紀に、エジプト文化の影響を強く受けていた南のヌビアにおいてピラミッド建設が開始された。ヌビアのピラミッド建造開始は、ナパタに都をおくクシュ王国のピイ王がエジプトを征服しエジプト第25王朝を開いてからである[7]。ピイ王は王家の墓地のあったエル・クッルに小型のピラミッドを建造し、以後の第25王朝の諸王もこの地にピラミッドを建造した。これらのピラミッドは底辺が10mほどの小型のものであり、礼拝堂が併設され、中の玄室には遺体が安置された。すなわち、ヌビアのピラミッドは諸説あるエジプトのものとは違い、明確に墓として建造されていた[8]。紀元前656年に第25王朝のタハルカ王がアッシリアに敗れてエジプトを失陥しヌビアに撤退したのちも、ピラミッドの建造は続けられた。ただしタハルカはエル・クッルに代わり、その対岸にあるヌリにピラミッドを築いた[9]。紀元前591年ごろに首都がナパタからメロエへと遷都されると、ピラミッドはメロエにおいて建造されるようになった。このピラミッド建造は、メロエ王国が滅亡する紀元後4世紀まで、約1200年にわたりつづけられた。小型であり建設された期間も長かったことからこのピラミッド群は多数建造され、エジプトのピラミッドよりも多数のものが残されている[10]。このピラミッド群は21世紀に入っても発掘が続けられており、スーダンの貴重な観光名所の一つとなっている[11]。
中南米[編集]

ティカル1号神殿

ワシャクトゥンGroup Eの中心部にあるスタッコ人頭神殿

モチェ遺跡の「太陽のワカ」
メソアメリカ文明のピラミッド様建築は、陵墓・天文台として造られた物もあったが、基本的には神殿として建設・使用された。建設された時期は各文明によって異なるが、マヤ文明の場合はもっとも古く存在が確認されているピラミッドはセイバル遺跡のもので、紀元前1000年ごろには存在が確認されている[12]。その後ピラミッドはマヤ文明の各都市で相次いで建設されるようになり、紀元前400年以降の先古典期後期にはエル・ミラドール遺跡において高さ70mにも及ぶラ・ダンタ・ピラミッドが築かれた。このピラミッドはマヤ文明において建設された中で最も大きなものである。その後も各都市は盛衰を繰り返しながらピラミッドを建設し、古典期のティカルや後古典期のチチェン=イッツアなど、現在でも残っているものも多い。マヤ文明の場合、ピラミッドは古典期においてウィツ(山)と呼ばれていたように、ピラミッドはそのまま人工の山として認識されており、山岳信仰との関連が指摘されている[13]。
基本的には上部に神殿を持つため、四角錐ではなく上面が平らになっていて、神殿の土台としての性格が強い。単数ないし複数の辺から神殿に到る階段が存在するのが基本である。マヤ文明のものを例に挙げると、パレンケの「碑銘の神殿」、チチェン=イッツアの「カスティーヨ」、ティカル1号神殿などは9段の基壇を持ち、9層の冥界を表すと言われているが、全ての神殿の基壇数がそのような意味を持っているわけではない。新しいピラミッド神殿は、古いそれの上に礫・土を積み上げて石材で表面を覆い隠す形で建造されるのが常であり、発掘すると多層構造が明らかになる場合がある。2016年11月にはチチェン=イッツアで、2層のピラミッドの下に3層目のピラミッドが発見されたと報じられた[14][15]。また、エジプトのピラミッドと異なり、内部の空洞はあまりない。
マヤ文明の建造物15号と呼ばれているピラミッドでは、第1層の床を切って開けたところ、女王の墓が見つかったと「Antiquity」誌、2011年9月号で発表された。[要出典]マヤ文明において、女王が支配していたという事例は珍しい。理由は不明だが、遺体は頭部に容器で被せられており、同地域であるグアテマラにあるティカル遺跡でも同様の事例が見つかっている。上の層は1300年前に作られた墓になっており、2層目は約2000年ほど前に作られたことがわかっている。
建築様式は古典期以降、テオティワカン独特の水平垂直壁のタブレロとそれをのせた斜面壁のタルーが組み合わされたタルー・タブレロ様式の基壇を採用した神殿ピラミッドが各地に築かれた。
メソアメリカで天文台として使われていた神殿で有名なのは、ティカルの Mundo Perdido(「失われた世界」)グループとワシャクトゥンのグループEである。グループEについては、各種概説書でピラミッドE-VIIからピラミッドE-Iは、夏至の日の出の方向であり、ピラミッドE-IIは、春分・秋分の日の出の方向、E-IIIは、冬至の日の出の方向に当たると紹介されている。
アンデス文明のピラミッドで良く知られているのは、モチェ文化のモチェ谷にある「太陽のワカ」「月のワカ」と呼ばれる日干煉瓦で築かれた建物である。「太陽のワカ」は、かつては、長さ342m、幅159m、高さ40mあったと推定されているが、17世紀に盗掘者達が川の流路を変更して削り取ったために半分以上が失われている。一方「月のワカ」は長さ95m、幅85m、高さ20m程の規模である。最近発掘調査が行われ、壁画に盾や棍棒の擬人化した図像に加え、ジャガーらしいものも見られる。このような要素は「太陽のワカ」には見られず、宗教的・儀礼的な空間として機能していたと考えられる。またモチェV期(A.D.550〜700頃)には、パンパ・グランデ遺跡でワカ=フォルタレサというピラミッドが築かれ、高さ55mに達している。
また、ボリビアのチチカカ湖畔にあるティワナク遺跡中心部に、アカパナと呼ばれるピラミッドがあり、中心部からやや離れた場所にプマ・プンクと呼ばれる低い基壇状のピラミッド状建築物がある。
その他[編集]
メソポタミア文明において神殿に付随して建設されたジッグラトも、日干し煉瓦を階段状に積み上げていったものであり、階段ピラミッドに含まれるものである。また、スペイン領カナリア諸島のテネリフェ島にあるグイマー村付近にも石を積み上げた階段状の建造物が存在しており、グイマーのピラミッドと呼ばれているが、これがいつごろ何のために建造されたかについては判明していない。
イタリア[編集]

ローマのガイウス・ケスティウスのピラミッド
ガイウス・ケスティウスのピラミッド
このピラミッドは、紀元前18年から12年の間に建造されたもので、古代ローマの執政官、法務官を務めていたガイウス・ケスティウス・エプロの墓である。外観は、本場エジプトのピラミッドよりも急勾配でヌビアのピラミッドに近い。外部は、白色の大理石により化粧が施されている。
ボスニア[編集]
詳細は「en:Bosnian pyramids」および「ボスニアのピラミッド説」を参照
ボスニアのヴィソコにはヨーロッパ初のピラミッドなどとされる山[16]があるが、ただの山であるとも言われる[17]
現代のピラミッド[編集]

ルーヴル美術館メイン・エントランスのルーヴル・ピラミッド。
ピラミッドは非常に特徴的な外観をしており、これを模した、あるいはヒントを得た現代の建造物は世界中に多数存在する。最も著名なもののひとつはフランスのルーヴル美術館の中庭に1989年に完成したガラス製のピラミッド[18]、いわゆるルーヴル・ピラミッドである。
俗信・数奇伝説など[編集]
巨大にして精緻な建造物であるピラミッドには、さまざまな風聞が付きまとった。
ピラミッドパワー[編集]
ピラミッド形の物体には不思議な力が宿るとする迷信がある。ピラミッドパワーを参照のこと。
「日本にもピラミッドがある」説[編集]
日本の、自然の山と思われているものの中には、人工的に作られたピラミッド様建築物が存在しているという説がある。酒井勝軍らが『太古日本のピラミッド[19]』(国教宣明団)などで主張していた。例として葦嶽山など。
超文明説[編集]
現代の土木機械を大量に投入してもなお多大な労力を要するものを、20〜30年で古代人ができたはずがなく、ゆえにピラミッドは古代宇宙飛行士説による宇宙人や超古代文明によって作られた、とする説が提唱されることがある。反論として、ピラミッド建設に携わったとされる作業員の人数が20万人という桁違いのものであり、徹底した分業体制が敷かれていたという点が挙げられる(これは発掘調査から明らかである)。
一方で、その建造方法の詳細はいまだに明らかになっておらず、例えばギザのピラミッドでは200万個もの石が「春分と秋分の日のみ、8面体にピラミッドが見える」「ピラミッドの底面積で、四面の面積を割ると黄金率が出てくる」「底辺の1/2で高さを割ると黄金率の平方根が出てくる」(この指摘から以下のことが導かれる。底辺の長さをa、黄金率をφとすると、底辺の中点Aから底面の中心点Bはa/2、底面の中心点Bから頭頂点Cは√φa/2、頭頂点Cから底辺の中点Aはφa/2。つまり、AB:BC:CA=1:√φ:φ)「高さで2辺の和を割ると円周率が出てくる」という現代でもあり得ないほどの精密さで建造されている[20]。
大西洋を挟んでピラミッドが建設されたことにより、両文明の交流の可能性が主張されることもある。特に有名なのはトール・ヘイエルダールであり、彼は自説を証明するために古代エジプトの葦船を復元して大西洋横断を行った。しかしこれはあくまで、当時の技術でも航海が不可能ではないという証明であり、両文明に交流があった事の裏付けにはならない。言語など他の要素において共通項が見られないことから、両文明の交流には否定的な見解が優勢である。巨大な石積みの建造物がピラミッド状となるのは、当時の建築技術上の必然(垂直に切り立った石壁を築くほうが、当然ながらピラミッド状に建造するよりも技術的には困難)である。ただし、ミトコンドリアDNAハプログループXおよびY染色体ハプログループR1の不可解な分布は、エジプト・ヨーロッパからアメリカへの移住が存在したとする説を支持する可能性がある。
フリーメイソン建造説[編集]

フリーメイソンのシンボルの内の1つプロビデンスの目。
たびたび秘密結社として紹介されるフリーメイソンが作ったとする説がある(フリーメイソン#起源も参照)。これはフリーメイソンの起源の1つとして石工組合としての実務的メイソンリーが前身として中世に存在したとする説であり、フリーメイソンのシンボルの1つであるプロビデンスの目はピラミッドを想起させる三角形が使われており、事実、集会所でもあるロッジには「ピラミッド・ロッジ」や「スフィンクス・ロッジ」などエジプトやピラミッドにちなんだ名前がつけられている。しかし、古代エジプトにフリーメイソンが存在した説は発見されていない。しかし近年、フリーメイソンのロッジを思わせる集落が発見されたらしい。また、参入儀式はエジプト神話のオシリスとイシスの伝説に基づいて行われる。
エピソード[編集]
ナポレオン・ボナパルトは、ピラミッドの戦いで、エジプト軍の中で戦場で考慮すべきは騎兵隊だけであると判断した。彼は「兵士諸君!あの遺跡の頂から40世紀の歴史が諸君を見下ろしている」と言って配下の軍隊を鼓舞した。
形容詞としてのピラミッド[編集]
もっとも代表的なピラミッドであるギザのピラミッドが明確に四角錐の形状をしているため、「ピラミッド」は四角錐または三角形のものの代名詞となっている。例えば上部がとがって下部に向かって広がっていく形状のものや四角錐のものは「ピラミッド型」と呼ばれる。ヒエラルキーは、上部に少数の支配層や強者が位置し、下部に行くにしたがって数を増していく被支配層や弱者が位置する階層構造が三角形をなしているため、「ピラミッド型構造」と呼ばれる。自然界の生物量も食物連鎖に従い同様の階層構造をしているため、生態ピラミッドという言葉で呼ばれる。
関連記事[編集]
ウィキクォートにピラミッドに関する引用句集があります。
カイロ
スフィンクス
ベンベン
エジプト無名戦士記念碑
アル=アハラーム
参考文献・脚注[編集]
ウィキメディア・コモンズには、ピラミッドに関連するメディアおよびカテゴリがあります。
^ 下川 香苗 (著), 茶留 たかふみ (著), 本村 凌二 (著) 『世界の歴史 (1) エジプトとメソポタミアの繁栄 : 古代オリエント 集英社版・学習漫画』2002年、154頁。
^ 「図説ピラミッドの歴史」p20-21 大城道則 河出書房新社 2014年2月28日初版発行
^ http://www.afpbb.com/articles/-/2681358 「クフ王ピラミッド近くに労働者の墓、「奴隷が建設」の通説と矛盾 エジプト」AFPBB 2010年01月11日 2017年2月17日閲覧
^ a b c d e f g h i j k NHKスペシャル エジプト発掘 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
^ クフ王型大ピラミッド建設の試み 季刊大林|バックナンバー
^ NEWSポストセブン2012年1月14日配信「ピラミッド 20年で完成と言われるが実際は数百年かかったか」
^ http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0802/feature01/_01.shtml 「特集 古代エジプトを支配したヌビア人の王たち ブラックファラオ」ナショナルジオグラフィック日本版サイト 2008年2月号 2017年2月15日閲覧
^ 「図説ピラミッドの歴史」p111-112 大城道則 河出書房新社 2014年2月28日初版発行
^ http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0802/feature01/_05.shtml 「特集 古代エジプトを支配したヌビア人の王たち ブラックファラオ」ナショナルジオグラフィック日本版サイト 2008年2月号 2017年2月15日閲覧
^ http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0802/feature01/_02.shtml 「特集 古代エジプトを支配したヌビア人の王たち ブラックファラオ」ナショナルジオグラフィック日本版サイト 2008年2月号 2017年2月15日閲覧
^ http://www.afpbb.com/articles/-/3014249?pid=0 「スーダン、秘められたピラミッドの謎に迫る」AFPBB 2014年05月06日 2017年2月15日閲覧
^ 「マヤ文明 密林に栄えた石器文化」p9 青山和夫 岩波新書 2012年4月20日第1刷
^ 「マヤ文明 密林に栄えた石器文化」p29 青山和夫 岩波新書 2012年4月20日第1刷
^ http://www.cnn.co.jp/fringe/35092427.html 「ピラミッド内部に別のピラミッド、メキシコの遺跡で発見」 CNN 2016.11.18 2017年2月15日閲覧
^ http://www.afpbb.com/articles/-/3108311 「マヤ文明の「入れ子ピラミッド」、内部に第3のピラミッドを発見」AFPBB 2016年11月17日 2017年2月15日閲覧
^ “外務省: 在外公館ニュース(在ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館)”. 外務省 (2006年9月). 2013年4月14日閲覧。 “ボスニア人アマチュア考古学者オスマナギッチ氏がこの山を12000年前のピラミッドとする説を発表、発掘作業を開始”
^ “外務省: 在外公館ニュース(在ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館)”. 外務省 (2006年9月). 2013年4月14日閲覧。 “この山は自然の隆起で出来たものだとする考古学者もおり、ピラミッド説の真偽は未だ解明されず”
^ http://www.afpbb.com/articles/-/2591976 「ルーブル美術館のガラスのピラミッド20周年記念、光のメッセージで祝う」AFPBB 2009年04月12日 2017年2月15日閲覧
^ 『太古日本のピラミッド』 - 国立国会図書館
^ ドキュメンタリー映画「ピラミッド 5000年の嘘」
外部リンク[編集]
ピラミッドの算数
カテゴリ: ピラミッドメソアメリカ文明土木史オーパーツ
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テキストはクリエイティ家の谷
曖昧さ回避 この項目では、古代エジプトの王墓群について説明しています。
MSXのゲームについては「王家の谷 (ゲーム)」をご覧ください。
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王家の谷

王家の谷
王家の谷(おうけのたに)は、エジプト、テーベ(現ルクソール)のナイル川西岸にある岩山の谷にある岩窟墓群のこと。古代エジプトの新王国時代の王たちの墓が集中していることからこの名があり、24の王墓を含む64の墓が発見されている。西の谷と東の谷があり、東の谷に60、西の谷に4の墓がある。
新王国時代以前の王の墓の多くが盗掘にあっていたことから、トトメス1世によってはじめて自分の墓のありかを隠す目的でこの谷に初めて岩窟墓が建設された。その後の長い歴史の中で王家の谷にある墓の多くも盗掘を受けたが、1922年に発掘されたツタンカーメン(トゥトアンクアメン)王の墓は唯一未盗掘で、副葬品の財宝が完全な形で発見された。
墓にはKV1~KV64という名前がつけられている。KVはKings Valleyの頭字語、数値は発見順の連番である。ただし西の谷の墓はWVで始まり、WV22~WV25となっている。
墓の中での撮影は写真、ビデオとも禁止されている。外では可。
2014年、ミイラ約50体が埋葬された共同墓地が新たに発見された[1]。
発見された主な王墓[編集]
ツタンカーメン王墓(KV62)
トトメス1世王墓(KV38)
トトメス3世王墓(KV34)
ラムセス1世王墓(KV16)
ラムセス2世王墓(KV7)
ラムセス3世王墓(KV11)
ラムセス4世王墓(KV2)
ラムセス6世王墓(KV9)
ラムセス7世王墓(KV1)
ラムセス9世王墓(KV4)
ラムセス10世王墓(KV18)
セティ1世王墓(KV17)
セティ2世王墓(KV15)
アメンヘテプ2世王墓(KV35) 
ハトシェプスト女王墓(KV60) 
アイ王墓(WV23)
など

Panorama of the valley, looking north
参考文献[編集]
[ヘルプ]
^ “エジプト・王家の谷で共同墓地発見、ミイラ約50体”. AFP. (2014年4月29日) 2014年4月29日閲覧。
関連項目[編集]
ウィキメディア・コモンズには、王家の谷に関連するメディアおよびカテゴリがあります。
エジプト考古学博物館
ルクソール事件

執筆の途中です この項目は、歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。
カテゴリ: エジプトの考古遺跡アフリカの谷ルクソール古代エジプトアフリカの墓地
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最終更新 2017年7月29日 (土) 17:11 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
テキストはクリエイティブツタンカーメン
ツタンカーメン
ツタンカーメンの黄金のマスク
ツタンカーメンの黄金のマスク
古代エジプトファラオ
統治期間 紀元前1333年–1324年,第18王朝
前王 スメンクカーラー
次王 アイ
ファラオ名[表示]
配偶者 アンケセナーメン
子女 2人(胎児)
父 アクエンアテン(アメンホテプ4世)
母 第35号墓(KV35)の若い方の貴婦人(英語版)(アメンホテプ4世の同父同母の姉妹)
埋葬地 KV62

ツタンカーメンの王墓=KV62
ツタンカーメン(トゥトアンクアムン、Tutankhamun[1]、Tutenkh-、-amen、-amonとも。紀元前14世紀、紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃)は、古代エジプト第18王朝のファラオ(在位:紀元前1333年頃 - 紀元前1324年頃)。より厳密な表記ではトゥト・アンク・アメン (Tut-ankh-amen)。
目次 [非表示]
1 人物
2 ツタンカーメンの墓
3 ツタンカーメンのミイラ
4 ツタンカーメンの死因
4.1 他殺説の容疑者
4.2 頭部打撃説
4.3 骨折からの感染症説
4.4 毒殺説
4.5 鎌状赤血球貧血症説
4.6 歩行障害説
5 脚注
5.1 注釈
5.2 出典
6 参考文献
7 外部リンク
人物[編集]
父アクエンアテン(アメンホテプ4世)の生存中に、唯一神アテン信仰が説かれていたためにトゥトアンクアテン(Tutankhaten、「アテンの生ける似姿」の意)[2]と名乗っていた。アクエンアテンの死後、即位すると伝統的な神であるアムン=ラー(アメン=ラー)[3]の信仰を復活させ、トゥトアンクアムン(「アムン神の生ける似姿」の意)と改名した。また、首都をアマルナからメンフィス、テーベに戻した。在位中、王妃アンケセナーメンとの夫婦仲は良かったといわれている。その後若くして死に、王家の谷に葬られた。ツタンカーメンの死後、王位は王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになる(但し、アイは王族の一人)。
ツタンカーメンはアクエンアテンの政策を大幅に覆したが、即位した時点でまだ年端のゆかない少年であったことがわかっており、アメン信仰復活やその死について様々な推測が語られ、歴史のミステリーとされている。1978年にアメリカの研究チームが調べた骨のサンプルから、血液型はA2型のMN型であることが分かっている。2005年1月にはエジプトの研究チームによってミイラの調査が行われた[注 1]。さらに2009年のエジプトチームの再調査では、骨のDNAサンプルからケーラー病を患っていたことが判明している。
ツタンカーメンはアクエンアテン(アメンホテプ4世)とその姉妹の1人との間に生まれ、骨折にマラリア(熱帯熱型)が重なって死亡した可能性が高いことが、エジプト考古学チームによるDNA鑑定やコンピューター断層撮影装置 (CT) の調査で分かった、と2010年2月、米医学誌「ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・メディカル・アソシエーション」が発表した。腐骨や内反足を患い、転倒して足を骨折し、マラリアが命取りになったという。また歩くのに杖をついていた虚弱な王だったとしている。埋葬品の130本もの杖は全て実際に使用されていたと思われる磨り減った跡がある。虚弱な身ではあったが、ヌビアの反乱を収めたりヒッタイトとの戦いに勝利するなど、王としての職務はこなしていたようだ。
アクエンアテンとネフェルティティの娘であるアンケセナーメンとツタンカーメンの婚姻は異母兄弟姉妹婚と推測されている[4]。年齢差は不明だが、アンケセナーメンは父親との子供を生んだ経験があるということで、7歳くらいツタンカーメンより年上だったと推測されている[5]。
2011年、スイスの研究機関iGENEAによりツタンカーメンの属するY染色体ハプログループが判明したと発表され、R1b1a2-M269という現在の西ヨーロッパの住民に見られる父系血統で、現在のエジプト人にはほとんど見られないハプロタイプであることが分かった。
生まれつき爪先が変形しており、左足の人差し指の一部がなく左足の骨の一部も壊死していて、足が不自由だった。
ギザに狩猟用の別荘を建てた。
姉が6人いる。
ツタンカーメンの墓[編集]
「[[::en:KV62|:en:KV62]]」も参照

ツタンカーメンの墓
王家の谷にあるツタンカーメン王の墓は、1922年11月4日にイギリスのカーナヴォン卿の支援を受けた考古学者ハワード・カーターにより発見、発掘された。ツタンカーメンは王墓としてはきわめて珍しいことに3000年以上の歴史を経てほとんど盗掘を受けなかった(実際には宝石の一部などが抜き取られていたが、副葬品自体は無事だった)、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品がほぼ完全な形で出土した。
その発掘は世界を大いに驚かせた。発掘のスポンサーとなったカーナヴォン卿が墓の公開直後に急死するなど、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げたという流言が世に広まり、それをきっかけとして『ファラオの呪い』という伝説が高まった。またそれに関する謎解きも盛んに行われるようになった。
また、ファラオのミイラに大きな外傷があったことから、ツタンカーメンが暗殺されたとする説を裏付けるものかと注目された。だが、いくつかの傷はミイラを文化財として大事にしない20世紀前半当時の風潮のために発掘時につけられたものであったことが明らかになっている。
ツタンカーメンのミイラと、黄金のマスク(en)をはじめとする数々の副葬品はエジプトに残された。そして、黄金のマスクや純金製の第3人型棺をはじめとする副葬品の大半は、現在はカイロにあるエジプト考古学博物館に収蔵されて観光客に公開されている。 またツタンカーメンの墓には出産直後か死産かと見られる2体の子供のミイラも一緒に葬られており、大きい方はツタンカーメンの娘であるとDNA鑑定された。小さい方は防腐剤の影響により鑑定不能。ハワード・カーターが発見時は保存状態は良好だったが、かなり悪くなっている。
その他、ツタンカーメンの墓からはエンドウ豆も発見されている。ツタンカーメン王墓が発掘された際に出土したもののリストの中に死後の備えとして入れられた食物の中に穀物の入った壷があり、その中に豆類が混じっていた[要出典][注 2]。

使った形跡のあるチャリオット6台、弓50本以上、矢数百本、杖130本以上、ヌビアが献上した盾、熱を下げるコリアンダーなど数十種類の種も発見された。 2016年のTBSの番組の古代エジプト3300年目の真実においてニコラスリーブスの説により北の壁画などの向こう側に隠し部屋が存在し、ツタンカーメンの義母(ネフェルティティの娘のアンケセナーメンとツタンカーメンが婚姻して義理親子関係となる)のネフェルティティが埋葬されているという内容であった。 番組中では、ネフェルティティの父のアイが(ネフェルティティが先に死んだため)娘を思って墓を盗掘されないように偽壁で覆い、ツタンカーメンの墓をおとりにして手前に造成させたとする可能性を鈴木亮平が言及し河江肖剰が可能性として最も高いと同意する内容であった。 実際、ツタンカーメンの墓はハワードカーターが1922年に20世紀最大の発見する際にも第一の入口の壁、途中のがれきの山、第二の刻印の壁、隠し部屋と何重にも盗掘防止とされる壁が存在した。 ツタンカーメンの墓の直上にラメセス6世(ツタンカーメンは第18王朝、ラメセス6世は第20王朝)の墓が存在する、ラメセス6世はツタンカーメンより後に在位したのでツタンカーメンの後に上にラメセス6世の墓が造成されている。しかし発見順はラメセス6世の墓が先である。 また、ニコラスリーブスの説による、ネフェルティティの墓であるという根拠については、女王の墓の特徴である右曲がりであること(番組中では、例としてハトシェプスト女王の断崖墓KV60を挙げている)、ハトシェプストはネフェルティティより前に亡くなっており伝統的に右曲がりとする例である、また夫婦の像でも女王は正面を向かって右側と決まっている旨を紹介した。
ツタンカーメンのミイラ[編集]
「[[::en:Tutankhamun's mummy|:en:Tutankhamun's mummy]]」も参照

ツタンカーメンのミイラ
ツタンカーメンのミイラは防腐処理の際の樹脂が化学反応によって変質したため保存状態はかなり劣悪であった。しかも、発見後、ミイラの包帯が解かれてしまったことも保存状態の悪化に拍車をかけることとなった。包帯を解く際にも、多くの外傷がミイラに付けられ、さらには脊椎が切断され性器までもが消失した。
2005年1月、CTスキャン撮影などによってミイラの調査が行われ、棺からミイラが取り出されたが、この時の貴重なミイラの映像は国際的に注目された。調査により死亡推定年齢が19歳であることが明らかになった。身長は165cm(古代エジプトの成人男性の平均とほぼ同じ)で、体格はかなり華奢であることがわかった。死につながる傷が特定されたものの、事故死説か他殺説かの論争に決着をつけることまではできなかった。なお、この調査の際に前述の消失していた性器が、無事に再発見されている。
この調査は、ミイラの保存状態が極めて劣悪になっており、従来どおり棺内での保存ではミイラの状態維持は出来ないと結論付けられた。その結果、2007年11月、初めてミイラが一般公開された。王墓内の黄金の石棺から、同じく王墓内に設けられた気温や湿度を厳重に調整できるプレクシグラス(軽く透明な合成樹脂)製の展示ケースの中に移され、保存状態が比較的良い顔と足先の部分を覆っていた布は取り外された。その後、現在もミイラはプレクシグラス製ケース内にて保存されている。
2010年2月、DNA鑑定によりアメンホテプ4世のミイラが特定され、アメンホテプ4世がツタンカーメンの父であることがほぼ断定された。またアメンホテプ3世の王妃ティイとツタンカーメンの母(生母のキヤ)のミイラ(ともにアメンホテプ2世王墓〈KV35〉で発見)も身元が判明、ツタンカーメンの母はアメンホテプ4世の同父同母の姉妹であることも明らかになった[9]。
ツタンカーメンの死因[編集]
Question book-4.svg この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年3月)
ツタンカーメンの死因が特定されていなかった当時、大腿骨の骨折から数日で死亡したことだけが確認されていたことから、他殺説が最も有力な説とされていた。
2010年のエジプト考古学研究グループによるCTスキャンを初めとしたDNAや放射線調査により、ツタンカーメンは近親交配で生まれたことによる遺伝による先天的な疾患を多数患っていた可能性が非常に高いことが確認されている。具体的には変形した背骨、欠損した足の指、臓器疾患の跡等が確認されており、特に直接の死因は足および大腿骨の骨折と、脳性マラリアの合併症による体調不良の悪化が原因であるという証拠が多数見つかった。
少なくともツタンカーメンの直接的な死因は病死であることはほぼ間違いない状況ではあるが、他殺説そのものは未だ可能性としては捨てきれないのもまた事実である。例えば足の骨折が体調不良を引き起こす引き金になったという話も、自ら転倒したのか、それとも何者かに突き飛ばされたのかも現状では分かっていない。
他殺説の容疑者[編集]
アンケセナーメン(ツタンカーメンの王妃。アクエンアテンとネフェルティティとの間の娘。後、アイの即位のときにその妻となる)
アイ(ツタンカーメンの死後、即位)
ホルエムヘブ(アイの死後、即位。古代エジプト第18王朝最後のファラオ)
頭部打撃説[編集]
かつては後頭部に強い打撃を受けて命を落としたとされていたが、根拠となっていたのは1962年のX線写真のみであった。頭蓋骨の中に骨片が写っていたことからこの説が生まれたのである。ファラオの呪いの噂の流布、また政治的な問題などから長らくミイラを再検査する機会が来なかったが、2005年にCTスキャンによって詳細に解析した結果、もし死の前に骨片があったなら脳とともに処理されているはずであること、骨片が樹脂の中に埋まっていたことなどから、骨片はミイラ作りの際に脳をかきだすために開けられた穴から落ちたものと結論付けられた。頭部打撃による暗殺説は現在では否定されている。
骨折からの感染症説[編集]
頭部打撃による死亡を否定したのと同じCTスキャンによって浮上した新たな説が、左足の大腿骨骨折による敗血症である。ミイラ作りの際に出来たとは考えにくい、骨を縦に割る骨折跡があり、わずかな治癒痕から骨折後数日は生存していたと分かるため、死ぬ数日前に皮膚を突き破ってしまうほどの骨折をしていたと推測される。またCTスキャンから、左足の足首にはギプスを思わせる硬い物質がはめ込まれたままミイラにされており、何らかの事故に巻き込まれたとする可能性が考えられている。太い大腿骨を縦に割るには強い力が必要であり、同様の骨折痕は現代ではバイク事故などで多く見られるため、チャリオット(二輪戦車)から落ちたのではないかとする説が有力視されている。また、チャリオットから落ちた理由としては、もともと足が弱いながらも精力的に活動を続けていたため、足が酷使に耐えられなくなったのではという説もある。
毒殺説[編集]
ワインによる毒殺説も唱えられていた。ワインは当時、王や貴族といった地位のある層しか飲むことの出来ない貴重なものであり、実際にツタンカーメンの墓にもワイン壷が収められていた。ただしこの説は一般的なものではなく、明確な根拠もなかった。
鎌状赤血球貧血症説[編集]
2010年、ドイツのベルンハルト・ノッホ熱帯医学研究所チームは、足の骨等に詳細に調べ上げ、鎌状赤血球貧血症の痕跡が見つかったと発表。
歩行障害説[編集]
2014年、放射線技師アシュラム・セリーム(元・カイロ大学教授)などがツタンカーメンのミイラをCTスキャンで撮影した2000枚の画像をもとに立体画像化し、骨などの硬い組織だけでなく他の柔らかい組織も、まるで解剖するように画像で確認できるようになり、セリーム技師の分析に拠れば、頭蓋骨の内側にめりこんだようにレントゲン写真などに写っている小さな骨には、ミイラ作成時の防腐剤がしみ込んでいないため、死亡前に頭蓋骨が殴られて陥没したわけではない、とされる[10]。
また、ツタンカーメンは埋葬より前に左の大腿骨を骨折していたということが判明した[10]。病理学者などが分析したところ、ツタンカーメンの左足(足首の先)は内側に傾いており、また、左足の指の付け根あたりの骨が腐っておりケーラー病(足舟状骨という、足指の付け根の骨への血行が障害されて生じる、骨が壊死する病気)を発症していたと判断され、ゆえに骨が体重を支えられる状態ではなくひどい痛みを伴ったはずであるため、生前の王は脚が不自由で、まともに歩行できる状態ではなかった、すなわち脚をひきずっていた、と推定された[10]。また、以上を傍証するような品も、ツタンカーメンの墓の副葬品からも見つかっている。王の墓の副葬品には実に130本もの杖が含まれていた。それらの杖の中には先がかなりすり減っているものもあったため[10]、これらの杖はただのシンボルとしてではなく実際に王が体重を支えるために使っていた、と推定され、王は生前に脚に不自由があったのだと推定された。
外科医のフタン・アシュラフィアンは、これらの症状は、ツタンカーメンは生まれつき側頭葉てんかんを患っていたとすると説明がつく、とする見解を発表した。この見解に拠れば、ツタンカーメンは側頭葉てんかんによって発作をともなった人生を送っていて、しばしば発作によって転倒していたと推測され、故に転倒事故によって大怪我をした可能性が高く、その結果、大腿骨を骨折しそれで死去した可能性があるとされる[10]。
脚注[編集]
注釈[編集]
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^ なお、この際にハワード・カーターがツタンカーメンの手足や胴体を故意に損壊させて装飾品を盗難していたことが判明している。
^ 日本において「ツタンカーメンのエンドウ豆」として栽培されているエンドウ豆が、本当にツタンカーメンの墓から出土した豆を起源としているかについては確かな証拠がない。日本におけるエジプト考古学の第一人者である吉村作治は、この件に関して否定的である[6][7][8]。
出典[編集]
^ 大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、355頁
^ 大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、356頁
^ 大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、42頁
^ Hawass, Zahi (2010年9月). “King Tut’s Family Secrets” (英語). ナショナルジオグラフィック. ナショナルジオグラフィック協会. p. 9. 2011年9月16日閲覧。
^ 『ツタンカーメン 「悲劇の少年王」の知られざる実像』(大城道則、中央公論新社、2013年) 150ページ ISBN 978-4-12-102235-6
^ http://www.gijyutu.com/ooki/tutan/otayori/otayori.htm#2002-11-20
^ http://web.archive.org/web/20040204215120/http://www.egypt.co.jp/EGYPTPIA/1sakuji's/messege/messege/honbun11.htm
^ http://www2u.biglobe.ne.jp/~gen-yu/tutpea.html
^ “ツタンカーメン解き明かされた系譜(記事全文)”. ナショナルジオグラフィック公式日本語サイト. (2010年9月) 2011年9月閲覧。
^ a b c d e KING TUT'S FINA MYSTERY(イギリス/カナダ 2014年 制作)NHK地球ドラマチック「ツタンカーメンの謎~死の真相に迫る~」として2015年3月23日放送。
参考文献[編集]
ハワード・カーター『ツタンカーメン発掘記』
イアン・ショー&ポール・ニコルソン 『大英博物館 古代エジプト百科事典』 内田杉彦訳、原書房、1997年。ISBN 4-562-02922-6。
外部リンク[編集]
ウィキメディア・コモンズには、ツタンカーメンに関連するメディアがあります。
ファラオの呪い(ツタンカーメンの王墓発掘に関する呪い伝説の真相)
吉村作治 古代エジプト・ツタンカーメンの謎とミイラ作製などの医学技術 日本臨床細胞学会雑誌 38(Suppl.2), 331, 1999-09
黄金のマスクで知られるファラオ・ツタンカーメンの死因は足を骨折し、ひどいマラリアにかかったこと
先代:
スメンクカーラー
古代エジプト王
133代
前1333年 - 前1324年
次代:
ケプルケプルゥラー (アイ)
執筆の途中です この項目は、歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。
カテゴリ: ファラオエジプトの幼君エジプト第18王朝ルクソールアマルナ時代墓を暴かれた人物
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2007/04/07 - ピラミッドと王家の谷 エジプトのピラミッドって王様のお墓だったと言われてますよね?でもなんで「王家の谷」に遺体が安置されてるんですか? 一番上の人が書いているとおり、そもそも使われていた時代が全然違います。ピ...
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2015/11/15 - 世界遺産NEWS 15/11/15:ピラミッド&王家の谷で未知の空間発見!? エジプトではこの11月、赤外線サーモグラフィーによる新たな発見が続いています。 まず、エジプトの世界遺産「古代都市テーベとその墓地遺跡」に登録されている王家の谷 ...
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2012/05/22 - 古代エジプトのファラオの墓というと、ピラミッドを連想する人が多いと思うが、王墓としてピラミッドが作られていたのは主に古王国時代という一部の時代だけだ。あまりにも目立ちすぎるのと、ひとつ建てるのに多大な労力がかかるのと、 ...
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王家の谷の反対側にある谷にある。バックの岩山の岩壁とその上のピラミッドのような小山と一体になって葬祭殿の異様な美しさを演出している。 ハトシェプスト女王葬祭殿[地図]. 葬祭殿はエジプト建築の最高傑作の一つと言われている。祭壇に上がって行く坂道 ...
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https://ja.wikipedia.org/wiki/王家の谷_(ゲーム)
王家の谷(おうけのたに、英題:King's Valley)は、コナミ(現・コナミデジタルエンタテインメント)から発売されたMSX用アクションパズルゲーム。 ... ミイラが守るピラミッドを探検し、秘宝珠をすべて回収して扉から脱出することがゲームの目的である。床に穴を ...
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王家の谷はルクソール西岸にあり、岩山の谷に古代エジプトの王たちの墓として造られた岩窟墓群で数多くお墓があります。墓あらし(盗掘)を防ぐために岩窟墓群にしたと言われています。それでも盗掘はあったようですが、1922年に発掘されたツタンカーメン( ...
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ナイル川の西約4km位、ネクロポリス奥地の涸れ谷に位置する、ファラオ(王)が眠る「王家の谷」。古代エジプト人は、再生復活信仰があり、日の沈む西岸は「来世=死者の町」と信じていました。王家の谷は、ピラミッドに似た三角山がある険しい岩肌に囲まれた ...
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次へピラミッド - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ピラミッド
ピラミッド(Pyramid、アラビア語: هرم ハラム)は、エジプト・中南米などに見られる四角錐状の巨石建造物の総称であり、また同様の形状の物体を指す。なかでも最も有名なものはエジプトにあるギザの大ピラミッドをはじめとする真正ピラミッド群で、その形から ...
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エジプトのピラミッド - Wikipedia
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エジプトのピラミッド(Egyptian pyramids)は、エジプトに位置する、角錐の形をした ...
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ピラミッド(ピラミッド)とは - コトバンク
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - ピラミッドの用語解説 - 古代エジプトの王墓の1種。正四角錐で東西南北の方位に合せて置かれる。古王国第3~6王朝時代は,主要なピラミッドが集中して造られたのでピラミッド時代とも呼ばれている。第1,2王朝の王 ...
あなたの知らないピラミッドの真実!作り方の謎や宇宙人との関係は?
www.gibe-on.info/entry/pyramid/
2016/09/19 - ピラミッドについてその作り方や宇宙人との関係、謎とされている事象についてご紹介します。エジプトを象徴する巨大遺跡「ピラミッド」。このピラミッドにはあまり知られていない真実が多く存在します。
ピラミッドはどうつくられたか | ヒトは何をどう成し遂げてきたのか | 時間 ...
tokidesign.jp/howto/story01.html
数千年の長きにわたって人々を魅了し続ける「ピラミッド」について考察したコラムです。管理される時間から、自ら生み出し構築する「時間」へ。JMAMのお届けするWebマガジン『時間デザイン』
エジプトのピラミッドについてどれくらい知ってる?ピラミッドに関する25の ...
karapaia.com/archives/52182015.html
2015/02/08 - エジプトのピラミッドを知らない人はいないだろう。古代エジプト時代に作られた四角錐で茶色っぽくて偉い人のお墓。ここまでは周知の事実だ。だがこれから上げる25の事実をすべて知っている人はかなりのピラミッドフェチだろう。 そしてこの ...
【新説】ピラミッドは超巨大「水路トンネル」で建造された! 建設会社社長が ...
tocana.jp › 海外 › 世界遺産・歴史ミステリー
2017/03/29 - ギザの大ピラミッド「Wikipedia」より引用 「世界7不思議」の1つと言われる世界遺産のギザの大ピラミッド。その不可解すぎる建造方法は、これまで数多くの仮説が立てられてきたが、未だ最終的な解決には至らず、一部では「宇宙人建造説」も ...
ピラミッドは“1万2500年前”に“複数の宇宙人”が建造した!? 「3つの新証拠 ...
tocana.jp › 海外 › 世界遺産・歴史ミステリー
2017/04/23 - 「世界7不思議」の1つであるギザの大ピラミッド。表の歴史では、エジプト第4王朝のファラオ、クフ王の墳墓として紀元前2560年頃に建築されたと考えられているが、異論も多く存在する。その中でもとびきりのロマンを持つのが「宇宙人建造説」 ...
エジプトで3700年前のピラミッド遺構を発見 - BBCニュース
www.bbc.com/japanese/39487699
2017/04/04 - エジプトで約3700年前に建造されたとみられるピラミッドの遺構が見つかった。同国考古省が3日、発表した。
ここ5年で話題になったピラミッドの謎10選|未確認生物と世界の謎Chahoo
chahoo.jp/pyramid10/
2016/07/19 - エジプトの三大ピラミッドには沢山の解明されていない謎が含まれていると言います。それらの内代表的な物を幾つか紹介していきます。
ピラミッドに関連する検索キーワード
ピラミッド クフ王
エジプトのピラミッド
エジプト ピラミッド 謎
ピラミッド 内部
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ピラミッド目的
ピラミッド 作り方
ピラミッド 場所
ピラミッド 宇宙人
ピラミッド 歴史
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曖昧さ回避 この項目では、建造物について説明しています。その他の用法については「ピラミッド (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ギザの三大ピラミッド
ピラミッド(Pyramid、アラビア語: هرم‎ハラム)は、エジプト・中南米などに見られる四角錐状の巨石建造物の総称であり、また同様の形状の物体を指す。なかでも最も有名なものはエジプトにあるギザの大ピラミッドをはじめとする真正ピラミッド群で、その形からかつては金字塔(きんじとう)という訳語が使われていた。エジプトのピラミッドは世界でもっとも有名な遺跡の一つとされており[1]、現代においても「金字塔」は、ピラミッドのように雄大かつ揺るぎもしない後世に永く残る立派な業績(偉大な作品や事業)などを表す代名詞となっている。
上記のとおり、ピラミッドとして最も著名なギザの大ピラミッドが明確な四角錐の形状をしているために、ピラミッドは四角錐または三角形のものの代名詞となっているが、こうした形状のピラミッドが存在した場所は基本的に古代エジプトおよびその影響を受けたヌビア、そしてそれを模倣した後世の建築のみであり、メソポタミアのジッグラトやメソアメリカ各文明のピラミッドといった世界各地に存在するピラミッドの多くは、階段状に層を積み重ねていき上部のとがっていない、いわゆる階段ピラミッドが主流となっている。また古代エジプトにおいても、真正ピラミッドが出現するまでは過渡的な形態として階段ピラミッドが存在していた。
目次 [非表示]
1 古代エジプト
1.1 語源
1.2 形態の形成
1.2.1 階段ピラミッド
1.2.2 屈折ピラミッド
1.2.3 真正ピラミッド
1.2.4 衰微
1.3 ピラミッドの建造
1.4 ヌビアのピラミッド
2 中南米
3 その他
3.1 イタリア
3.2 ボスニア
4 現代のピラミッド
5 俗信・数奇伝説など
5.1 ピラミッドパワー
5.2 「日本にもピラミッドがある」説
5.3 超文明説
5.4 フリーメイソン建造説
6 エピソード
7 形容詞としてのピラミッド
8 関連記事
9 参考文献・脚注
10 外部リンク
古代エジプト[編集]
詳細は「エジプトのピラミッド」を参照
古代エジプトにおけるピラミッドは、巨石を四角錐状に積み上げ、中に通路や部屋を配置した建造物である。王が天に昇る階段としての役割や、その斜めの外形が太陽光を模したものであるとも考えられている。ピラミッドは単体で完成したものではなく、付随する葬祭殿等との複合体として考えるべき特徴を持つ。(大ピラミッドなどの代表的な例では)ピラミッド本体には基本的に北面に入り口があり、玄室(と思われる部屋)に至る道や「重力分散の間」と呼ばれる謎の機構など、未解明の仕掛けがある。
ヘロドトスの『歴史』に記述されて以来、一般的には奴隷の強制労働で築いた王墓とされてきたが、1990年代に入ってからギザの大ピラミッド付近でピラミッド建造に関わったとされる人々の住居跡や墓が見つかり、ピラミッド建設に関わった道具や手術跡など高度な外科治療が施された人骨が発見された。更には、女性や子供達の骨も数多く発見され、家族で暮らしていたことが推測された。このような事実から、定住しピラミッド建設に携わっていたのは虐げられていた奴隷ではなく、専属の労働者がいたことが明らかになった。また、ピラミッド建設に必要な高い建築技術は専門の技術者でなければ持っていないこと、建設に関する労働者のチーム編成や作業記録が文字で残っていることから、専門的な知識を持った技術者がいたことも推測される。また、住居跡があることから技術者は年間を通してピラミッド建設現場に居住していたことが分かっている。ナイル川が上流のサバナ気候の影響で氾濫し、農業ができない間農民が労働力として使われていた救済土木事業説もあるが、それに関する論文などは存在しない。
ピラミッドが「なんのために」「どのような建築方法で」作られたかについては定説が無い。最も有名な「王墓説」は王家の墓が別に発見されることから否定される傾向にあり、その他「日時計説」「穀物倉庫説」「宗教儀式神殿説」「天体観測施設説」もその後の研究や物証によって否定されるなど主たる意見となっていない。またドイツの考古学者であるメンデルスゾーンが提唱した「農民救済の公共事業説」のように物証を伴わない説は反証されることもないが、同じく実証を伴わないアイディアに留まる傾向が強く、主たる論とはなっていない。そのためピラミッドは「王墓」であるという説明が続けられていることが多い。また、王墓であるかどうかとは別に、葬祭殿や付随する墓地群などから見て、ピラミッドが葬礼と関連があること自体は確実視されている。
なお、2008年11月にサッカラで発見されたシェシェティ女王のピラミッドはエジプト国内で118基目である。
語源[編集]
ギリシア語で三角形のパンを指すピューラミス(πυραμίς; pyramis; ピラミス、ピラムスとも)に由来するという説が最も有力。古代エジプト語ではギザのピラミッドに「昇る」という意味の「メル(ミル、ムルとも。ヒエログリフでは△と書く)」という言葉を当てていた。
形態の形成[編集]
現在我々が見るようなピラミッドの形態はある時点で突発的に形成されたわけではなく、何世代もかけて練り上げられてきたものである(ただし、それぞれのピラミッドはその形状で完成形態であるとする研究も出てきている)。
階段ピラミッド[編集]

ジェセル王の階段ピラミッド
階段ピラミッドはピラミッドの最初の形態で、紀元前27世紀、第3王朝時代サッカラに、宰相イムホテプが設計し、ジェセル王が築いたジェゼル王のピラミッドがその始まりである。当初は日干し煉瓦による方形のマスタバとして建立され、ピラミッド状とすることは想定されていなかったと考えられているが、幾度もの試行錯誤の末、次々と上部に煉瓦を積み上げて最終的には階段状の巨石建造物と成した[2]。一度階段形態が完成した後も、追加して拡張が成された。完成時の寸法は東西約121m、南北約109m、高さ約60m。このピラミッドは後世に巨大な影響を及ぼし、以後はそれまでのマスタバにかわりピラミッドが王墓の主流の形式となった。
屈折ピラミッド[編集]

スネフェル王の屈折ピラミッド
第4王朝期に入ると、スネフェル王が既存のピラミッドを基調に、メイドゥームに51度の勾配を持つピラミッドを造り上げた。このメイドゥームのピラミッドは最初に四角錐の形状を採用しており、その意味では画期的な建造物であった。ただし、これは後に(あるいは建設途中に)崩壊した。このピラミッド(崩壊ピラミッド、偽ピラミッドとも呼ばれる)はそもそも四角錐を目指していなかったとする説もある。また、このピラミッドをスネフェルのものとして数えない場合もある。
スネフェル王はまた、屈折ピラミッドと称されることになるピラミッドも築いた。これは建設途中に(地上から49m地点で)勾配を約54度から約43度に変更していて、高さは約101mであった。屈折ピラミッドの形状の理由としては、
勾配が急過ぎて危険なため(崩壊の危険、玄室にかかる重量過多)角度を途中で変更した。
建造中に王が病気になったので、完成を急ぐため高さの目標を下げた。
これが完成形であり、下エジプト・上エジプトの合一を象徴している。
などの説がある。
真正ピラミッド[編集]

クフ王のピラミッド断面図
1.入口 2.盗掘孔 3.上昇通路入口 4.下降通路 5.未完の地下室 6.上昇通路 7.女王の間 8.水平通路 9.大回廊 10.王の間 11.控えの間 12.脱出孔

オリオン座(図示)
スネフェルは更にダハシュールにおいて、勾配約43度で、側面が二等辺三角形の赤いピラミッドを建造。これによっていわゆる真正(しんせい)ピラミッドの外形が完成した。スネフェルが1人で3つもピラミッドを築いている点から導かれる王墓説否定論に対しては、メイドゥームのピラミッドは勾配がきつすぎて崩壊、同様に屈折ピラミッドは一定の高さ以上にできなかったので挫折した妥協の産物でしかなく、最終的に43度のピラミッドが誕生した、という反論がなされてきた。
世界一高いピラミッドは、スネフェルの次のクフ王によって紀元前2560年頃にギザに築かれたギザの大ピラミッドで、勾配は51度52分。底辺は各辺230m、高さ146mに達する。またこれは14世紀にリンカン大聖堂の中央塔が建てられるまで世界で最も高い建築物であった。第2位のカフラー王のピラミッドもこれに匹敵する、底辺215m、高さ143.5mである。この2つに隣接するメンカウラー王のピラミッドは何故か規模が縮小し、底辺108m、高さ66.5mである。この王の威光が前二代の王と比してさほど劣るものではなかったと伝えられることから、縮小の理由は謎とされている。3つはギザの三大ピラミッドと呼ばれ、世界有数の観光地となっている。これらのピラミッドはもともとは表面に石灰岩の化粧板が施されており、(現在のような段状ではなく)傾斜のある滑らかな面でできた四角錐で、全体が白色に輝いていたのだが、遺跡を保護するという概念がなかった時代に、その化粧板が剥がされてカイロ市街地の舗装に使われてしまい、現在のような姿となった。化粧板は現在ではカフラー王のピラミッドの頂上辺りとギザのピラミッドの土台元に僅かに残っているのみである。また、ピラミッドの頂点にはベンベン石(キャップストーン)と呼ばれる四角錐状の石が置かれた。
この三大ピラミッドおよびナイル川の(当時の)流れ、そして他の多数のピラミッドとの配置に着目し、ピラミッド群は現在から1万500年前の天体の配置を模したものであるという説もある。すなわち、ナイルが天の川で、三大ピラミッドがオリオン座のベルト、即ち中央を横切る三つ星に相当、他のピラミッドも星の位置に対応しそれを反映しているということである。三大ピラミッドのうち、メンカウラー王のピラミッドが他の2つの頂点を結んだ線からずれている点、大きさも他の2つよりも小さいことについて説明する有力な説とも言われている。ただし、この説はエジプト考古学庁には認められてはいない。ピラミッド建造年代を定説通りとした場合、建造当時はエジプトではオリオン座は地平線すれすれの位置に見えていたはずで、それほど目立たないうえに、実際にオリオン座の三ツ星を模したならそのような記録があってもよいはずである。
衰微[編集]
クフ王の大ピラミッドを頂点として、その後それをしのぐピラミッドが建設されることはなかった。続くカフラー王およびメンカウラー王の時代においては規模・技術ともにそれほど劣るものではないピラミッドが建設されており、この3つのピラミッドを総称して三大ピラミッドとも呼ばれるゆえんであるが、その後造営規模は縮小していった。続くエジプト第5王朝およびエジプト第6王朝期においてもピラミッド建設は続けられるが、石材の代わりにレンガを代用したり、石積みの精緻さも劣るなど、ピラミッドの造営は衰微していった。その後エジプトは古王国期からエジプト第1中間期と呼ばれる混乱期に突入し、この時期にいったんピラミッドの造営は中断する。その後、南部のテーベの王朝が再統一を果たしエジプト中王国時代が始まるとピラミッドの造営は再開され、エジプト第12王朝の諸王によっていくつかのピラミッドが建設されるが、ラフーンのピラミッドやハワーラのピラミッドなどに代表されるこの時代のピラミッドには技術の衰退の跡が顕著に見られ、日干しレンガによって建造されたこれらのピラミッドは風化によって崩壊し、現代においては小山のような姿をとどめているに過ぎない。ただ一方で、葬祭殿の充実が進んでいったことから、エジプト人の価値観・宗教観の変化が指摘される。また、ピラミッドが王墓でないという説では、ピラミッドは葬祭用の施設の一部にすぎず、墓と合体させて作る場合もあるが、墓の本体ではないとする。その後ピラミッドは王朝の衰微とともに再び建造されなくなっていき、とくにピラミッド複合体は中王国時代をもって姿を消した。紀元前16世紀、エジプトを再統一しエジプト新王国時代を開いた第18王朝のイアフメス1世はアビドスに小さなピラミッドを建造したが、これがエジプトにおける王のための最後のピラミッドとなった。これ以後、王族は王家の谷などの墓地に埋葬されるようになり、大型のピラミッドが建造されることはなくなった。ただし、私人用の墓地に小さなピラミッド形のシンボルを作ることはその後も長く行われた。
ピラミッドの建造[編集]
旧来、ピラミッドの建設は多数の奴隷を用いた強制労働によるという説が主流であったが、奴隷を徴用した証拠がないという点から一部の研究者には疑問を抱かれていた。近年のピラミッド労働者の村の発掘で、労働者たちが妻や子供といった家族と共に暮らしていた証拠や、怪我に対して外科治療が行われていた痕跡が墓地の死体から見つかり、現在では奴隷労働説は否定されつつある。また、2010年にはクフ王のピラミッドのそばに建設に携わった労働者の墓が発見されたことも、奴隷労働説を否定する傍証のひとつとなっている[3]。そもそも古代エジプト社会は古代ローマや古代アテナイの社会と異なり、農業や手工業といった通常の生産労働も奴隷労働に依存せず自由身分の農民によって成されており、人口の少数しか占めない奴隷は家内奴隷が主体だったと判明している。吉村作治は、ピラミッド建造は定期的に発生したナイル川の氾濫によって農業が出来ない国民に対して、雇用確保のために進められた公共工事的な国家事業であったと主張している。ピラミッドが国家事業として作られたという説は吉村のオリジナルではなく、クルト・メンデルスゾーンによって既出である(邦訳:ピラミッドの謎/文化放送開発センター出版部)。ただしメンデルスゾーンは、ピラミッドを作る目的が公共工事だったとは言っておらず、事業形態が国家事業であり、建設の目的自体は主に墓であっただろうと述べている。
ピラミッド建設に必要な石材は主にナイル上流のアスワン付近で産出し、石切場で切り出された後、粗加工した状態で搬送されたと考えられている。それらの石は一定の規格寸法があったわけではなく、現場で必要な寸法に合わせて専門の職人が鑿で整形していた。また初期のピラミッドと後期のピラミッドでは、石のサイズや積み方が異なる[4](詳細は各ピラミッドで確認のこと)。
従来、石材を積み上げるにあたっては、日乾し煉瓦と土などで作業用の傾斜路が作られ、その斜面を運び上げられたと考えられてきた[4]。傾斜路の形状には、ピラミッドを取り巻くように築かれて4辺で直角に転回していたという説と[4]、長大な直線傾斜路が使われたという説がある[4]。前者の説では、傾斜路がピラミッドの姿の殆どを隠してしまうために[4]、建築中の測量が出来ず、歪んだ形にピラミッドが仕上がってしまう懸念の指摘があり[4]、後者ではピラミッド本体と同じくらいの石材が傾斜路を作るために必要とされるという非効率性の問題がある。ただし後者の方法だと、各ピラミッドの傾斜路がナイル川から石材を降ろして運び上げるのに丁度良い位置に来るという研究もある[要出典]。クフ王のピラミッドでは、直線傾斜路があまりにも長くなりすぎ[4]、石切り場の位置を通り過ぎて先にまで達してしまうという矛盾が生じる[4]。
そのためフランス人建築家ジャン・ピエール・ウーダンは、傾斜路を使用したのは途中までで、それ以降はピラミッドのふちに沿って螺旋状の内部トンネルを造りながら石材を運んだとする「内部トンネル説」を主張している[4]。なお内部トンネルの存在は、一部のピラミッドでは存在が確認されている[4]。ウーダンは同時にクフ王のピラミッドの大回廊の存在意義についても、石を引きあげるためのつり合いバラストのための空間であると説明している[4]。
大林組は1978年に、現代の技術ならmクフ王の大ピラミッドをどのように建設するかについて研究する企画を実行した[5]。それによれば総工費1250億円、工期5年、最盛期の従業者人数3500人という数字が弾き出された。1立方m当たりの価格は、コンクリートダムが2万4000円前後に対してピラミッドは4万8000円になるという(金額は当時のもの)。なおこの試算に対して、1960年代アブ・シンベル神殿の移設に重機による5年かけて解体されたのは2200のブロック、それに対してピラミッドは200万個以上と現代でも可能なのかと疑問を呈されることもある[6]。
ヌビアのピラミッド[編集]

ヌビアのピラミッドの航空写真(メロエ)
詳細は「ヌビアのピラミッド」を参照
エジプトにおいて王のためのピラミッドが建設されなくなったのは紀元前16世紀であるが、それから800年ほどたった紀元前8世紀に、エジプト文化の影響を強く受けていた南のヌビアにおいてピラミッド建設が開始された。ヌビアのピラ

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